口絵・本文イラスト●ヤスダスズヒト恋愛.体操図解●メメ編集■児玉拓也 ---------------------[End of Page 1]--------------------- ププローグヨコチョの風呂屋《ふろや》 季節は冬。時刻は夜。場所は世田谷区《せたがやく》。 凍《こご》えそうな空気の中で、一人の少女は彼を待っていた。よほど寒いのかこすり合わせた手に、自分の吐息を吹きかける。肩まで伸びた髪の毛は、彼女自身の寂しさを表しているかのようにしっとりと濡《ぬ》れていた。 「あ、流れ星……」 空から星が落ちて、巨大な銭湯の煙突を横切り、消える。 「あーあ、願い事、言えなかったなあ」 残念そうな顔で、もう一度だけでいいからと流れ星を願うが、少女の願いは叶《かな》えられることはなかった。森の深くにある湖のように夜空は静まり返ったまま、ただ音もなく、宝石にも似た輝きを星座は発し続ける。 「ごめん、待った?」 その時、銭湯の入り口から、小さなオケを持った少年が顔を出した。彼を見た途端、寒さと心細さで泣きそうになっていた少女は、弾《はじ》けるように笑顔を浮かべた。 ---------------------[End of Page 2]--------------------- 「もう1遅いよ、佐間《玉一ま》っち─」 「てへへーごめんよ、テンちゃん!」 二人は親密そうに呼び合うと、じゃれるようにして腕を組んだ。佐間っちはテンちゃんの髪をそっと撫《な》で、優しい声で囁《ささや》く。 「かわいそうに、洗い髪が芯《しん》まで冷えて……」 テンちゃんの方が、彼よりもずっと早く銭湯から出たのだ。外の冷たい空気は、せっかくの入浴で温まった彼女の身体《からだ》から、すっかり温《ぬく》もりを奪ってしまっていた。 「そうだよもう。佐間っちってばさ。一緒に出ようねって言ったのに」 「ごめんごめん。でも大丈夫だよ。どんなに冷えたって」 そう言って佐間っちは、少女を包み込むように抱きしめる。 「俺《おれ》が、お前のこと……温めるから、サ。いつだって、何度だって、ネ」 「佐間っち……」 冷え切っていたテンちゃんの身体に、染《L》み込むように愛情が伝わる。 「うん……、アリガ……ト」 「よし、家まで競争だ。先についた方が、愛情が深いってことサ1」 「なにそれえ〜1よおし、あたしが先に着いて、佐間っちのことを愛してるって証明してやるんだから1」 「なに言ってんだ、俺の方が、お前のこと、愛してるぞ1レッツラドーン1」 ---------------------[End of Page 3]--------------------- 二人はそんなことを言い合いながら、夜の住宅地を駆け出した。 たまらないのは、電柱の後ろに隠れていた少年と少女である。それぞれが悪夢でも見たような表情をして、声を出すことすらできない。コンビニに行こうと歩いていたら、悪夢のようなこの光景を偶然目撃してしまったのである。 最初は「あれ?あそこにいるのテンコちゃんだよね?」「あ、本当だ。佐間太郎《さまたろう》も。 こんな時間になにしてるんだろう」なんて、軽い気持ちで声でもかけようとしていた。 しかし、できなかった。できるわけがなかった。なぜなら、佐間《とヒま》っちとテンちゃんは頭の沸いているようなラブラブ会話をした後に、うふふー、あははi、待てよi、ダメダメェー追いついてごらんなさーい、よおーし捕まえちゃうそー、レッツラドンドコドーンー・かなんかスローモーションで言いながら走り出したからだ。 病気だろうか。もしかして心の病気だろうか。とにかく、今は関わらない方がいい。なんか、底抜けに恐ろしい。そう思った二人は咄嵯《とつさ》に電柱の陰に隠れたのである.、 「ねえ、愛《あい》ちゃん.、今の、やっぱり佐間太郎とテンコちゃん、だよね?」 明るい髪の色をした少年がそう言った。自分の見たものが信じられないようで、何度も手で目をこすっている。 「う、うん。そうだと思う。ねえ、進《しんい》…くん。わたしたち、幻《お っ》覚でも見たのかな?」 口をポカンと開けていた愛だったが、なんとか正気を取り戻すと絞りだすようにそれだけ言った。やはり彼女.も、今、目の前で行われたラブコメ展開に現実感がないようであっ ---------------------[End of Page 4]--------------------- た。 「っていうか変だろ1むしろ不自然だ1テンコちゃんて、あんなキャラじゃなかっただろ19 もっとこう、暴力的で、ガツーンて感じで、ボコーンて感じで1」 「そ、そうだよね?神山《かみやま》くんだって、『なんだよテンコ、こっち来んなよ』みたいな感じだったでしょー9”それなのに、どうしてあんな昭和の少女漫画みたいなセリフをP…」 佐間太郎《さまたろう》とテンコは、どうにかなってしまったらしい。それが進一《しんいち》と愛《あい》の出した結論であった。なにしろ、二人は、昨日まで毎日ケンカをしているような仲だったのだ..そんな二人が、いきなりラブラブになるわけない。しかも、あんな、正直ちょっとどーかと思うようなべタなラブラブっぷりを発揮するわけがない。うんうん。 「ね.凡進一くん、コンビニ行くのやめない?だって、もしコンビニに二人がいて、あんな調子だったら、わたし、どうしたらいいかわからない……」 「そ、そうだね。夜食でもって思ったけど、万が一遭遇したら頭がどうにかなりそうだし。 大人しく帰って勉強の続きしよう」 「うん……」 二人はプルプルと小刻みに震えながら(妙なものを見た後遺症)、なにかから逃げるようにして家路を急いだ。 愛と進一が去った後、銭湯「エビス湯」の前には誰《だれ》もいなくなったかのように見えた。 ---------------------[End of Page 5]--------------------- しかし、もう一人、さきほどのラブラブカップルを見ていた人物がいたのである。 「佐間太郎……め」 声の主は苛立《いらだ》ちを隠さずに言った後、強く舌打ちをした。 その舌打ちに怯《おび》えるように、弱々しく流れ星が光る。 「テンコは」 決意を固めるようにして、彼は言った。 「テンコはお前には渡さない……」 ---------------------[End of Page 6]--------------------- 第一章カタツムリヘルプミー 神山佐間太郎《かみやまさまたろう》は、神様の息子である。 世田谷区《せたがやく》の住宅地に、築二十五年の一軒家がある。どこからどう見ても平凡な家であり、誰《だれ》もが気にせず通り過ぎてしまう、なんの変哲もないものだ。 しかし見た目で判断してはいけない。実はこの一軒家こそが、神様の息子「神山佐間太郎」と、彼の家族が住む偉大なる一戸建てなのである。 時刻は朝の六時三十分。その家の前を、パーカーを着た少女が走り去っていく。吐く息は白く曇り、寒さで耳が赤くなっていた。太陽の光は青に近い紫色で、冷え切った空気に反射して輝いている。少女は庭先をチラッと見てから、「うん、なんの変哲もない」と確認してランニングを続けた。それぐらい、なんの変哲もないのだ。 さて、神様の息子と、その家族たちがどんな朝を迎えているのか、ここで覗《のぞ》いてみることにしよう。まずは一階にある、キッチンに注目。 「あらあら久美子《くみこ》さんーもうちょっと端《はし》っこ寄ってくれませんか?あたし、コンロ使 ---------------------[End of Page 7]--------------------- いたいんですけどっ1」 「いやいやテンコさん、わたし今、目玉焼きを作っているので、もうちょっと待ってくれませんかP…テンコさんは洗い物の続きをどうぞどうぞ1」 「おやおや久美子さん、目玉焼きはもう作りましたよ1ほら、食卓の上を見てください、完成しているじゃありませんかっ1」 「はてはてテンコさん、それではわたしが作った目玉焼きの方がアツアツですね!きっと、あの食卓に置いてある目玉焼きより、ずっとおいしいですよね1」 「むむむむむむむぐうううううう!」 「ふにゅにゅにゅにゅにゅううう1」 ……激しい。なにやら、朝から少女二人が狭いキッチンに立ち、肩をグリグリとぶつけ合いながら料理をしている。ライバル心を燃やしているようで、どちらも相手に場所を譲ろうとはしない。偉大なる神様の家族とは思えないほど、なんちゅーか、こう、エゲつない感じで、女の戦いが繰り広げられているのだ。それにしても、二人とも奥歯を噛《か》みしめ過ぎである。 まずは必要以上に泡を立て、食器をガシガシと洗っている少女から説明しよう。活発そうなショートカットに金属とラバーでできた髪飾りをつけている彼女はテンコ。天使の少女である。天使といっても、背中から羽が生えていたり、頭の上に光り輝く輪が浮かんでいるわけではない。一般的な人間と同じ見た目をしている。 ---------------------[End of Page 8]--------------------- とはいえ、さすが天使だ.、柔らかそうな肌に、曇りのない瞳《ひとみ》。人間の女性とは違う、透明感のある魅力を兼ね備えている。 「やあー1マグカップ終了1コップ終了ースプーン終了っ1でいでいっ!」 たとえ、ものすごく気合の入った声を上げつつ洗い物をしていたとしても、気品のようなものが感じられ……ないけど、一応、その、天使なのである。 一方、隣でテンコに負けじと必要以上に強い火力で目玉焼きを作っている少女..彼女の名前は小森久美子《こもりくみこ》。わけあって、この神山《かみやま》家に居候《いそうろう》することになった高校一年生の少女である。 二人とも同級生だが、テンコが冒《ただ》ハ今《いま》発育中であります1」という健康的な体をしているのに対して、久美子は驚くほど未成熟な体をしていた。極端に細い腕や足は、栄養失調なのではないかと心配してしまうほどに頼りない。今どきにしては珍しい真っ黒な髪の毛や、色素の薄い肌も「わたし、あと二秒ぐらいで倒れますんで。貧血とかで、糖分とか足りないとかで」という雰囲気を醸《かも》し出していた。少しでも強い力で触れたら、すぐに壊れてしまいそうなほどに繊細な少女である。 「うーっ1目玉焼き終了しましたっ!終わりですっ1はうっ1」 まあ、繊細な少女でも叫《さけ》ぶ時は叫ぶのだ。さきほどからの会話を聞いていると、とても繊細そうには思えないだろうが、実際そうなのだから仕方ない。なにか、特別な理由が彼女たちを燃えさせているのだろうか? ---------------------[End of Page 9]--------------------- 「おー。今日も頑張ってるねえ……」 そんな二人を食卓に座ってノンビリと眺《なが》めているのは、神山家の長女、美佐《みさ》である。もう冬だというのに、家にいる時の彼女の姿は夏と同様である。タンクトップとパンツだけの、下着同然の格好だ。ちなみに、一般的な高校二年生の女の子はたとえ夏でもそんな姿で家の中をウロウロしないであろう。いたらゴメン。 「プハー。うひ、オイスィ」 美佐は紙パックに口をつけて牛乳を飲むと、テーブルに広げていた新聞を読み始める、最近、オヤジ化が激しくなっている彼女であった。 ちなみに、美佐は女神である母親の「ビーナス」から生まれた存在であり、次の女神候補となっている。彫刻のように整った顔をしていて、人間とは比べ物にならないほど美しい。だが、せっかくの美貌《びぽう》も、このオヤジ的な行動により台無しになっているのだ。まあ、外面《そとづら》だけはいいようで、学校などでは「美しくて気品ある、まるでお姫様のような美佐さん」で通っているらしいが、家に帰ればこの通りである。 「終了っーー・』 そんな美佐を尻目《Lりめ》に、同時に作業を終えたテンコと久美子が、力強く叫んだ。 一瞬の間《ま》(無言で散る視線の火花)の後に、またしても同時に振り返ると、同じ方向に向かって歩き出す。決して走りはしないが、限りなくダッシュに近い早足なのである。普通、歩く時に聞こえてくるのは「トコ、トコ、トコ」という音だが、二人の出しているの ---------------------[End of Page 10]--------------------- は「トストストストストストストスーー”」だ。ちょっと怖い。 「くっ、久美子《くみこ》さん1そんなに急いでドコに行くんですかっ!もうちょっと居間とかで休んでたらどうですかっー」 「いえいえテンコさん、わたしは元気いっぱいなので1それよりテンコさんも、コンロ使いたかったんじゃなかったですかp」 早足で廊下を移動しながら、お互いをけん制し合う。狭い廊下なので、キッチンにいた時と同じように肩と肩がぶつかっている。ハリウッド映画のカーチェイスのシーンを思い浮かべて欲しい。犯人の車に体当たりするパトカー。そんな勢いで二人はパッキンバッキンとぶつかっているのだ。 キッチンから廊下を経由し、二階へと続く階段へと二人は到着する。階段は廊下よりも、さらに狭くできているので、二人同時に進むことは不可能だ。階段の下で立ち止まったテンコと久美子は、なぜか軽くストレッチをしだした。これからなにが始まるのであろうか。 そこに、無言でやってきたのは小さな女の子だった。彼女の名前はメメ、小学五年生である。彼女もまた、女神候補の一人だ。 メメが無表情のまま口にホイッスルをくわえると、テンコと久美子は姿勢を低くして二階を睨《にら》みつける。「わりと凶暴なクラウチングスタートのポーズ」。そう名づけたい。 「はい、スタート。ぴりぴりぴりぴり〜」 メメは笛を吹いた後に、ふいんっと右手を上に挙げた。その瞬間、例のポーズを取って ---------------------[End of Page 11]--------------------- いた二人は、爆発するような勢いで階段に向かって飛び込んだ。 『はうっ匹』 そして、詰まった。 当たり前である、狭い階段を二人して進もうとしたのだから、途中で動けなくなってしまうのは仕方がない。それでもお互いに譲ろうとはせず、前へ前へと向かうものだから、さらに姿勢は窮屈《きゆうくつ》になっていく。二人は全身の力を振り絞り、なんとか上へと進むもうとする。 額に汗が滲《にじ》み、顔は赤くなり、呼吸は荒い。まさにデッドヒートなのだ。見た目はすごく地味だけど。すんこいゆっくりと階段を上ってるだけだけど、デッドヒートなのである。 ちなみに、その地味なデッドヒートの様子をメメはボンヤリと下から眺《なが》めている。 「スローモーションみたいな動きになってる……。あ、足が浮いた……」 小声でそんなことを咳《つぶや》きながら、どちらが先に抜け出すのか見守っているのだ。 「ね.凡久美子《くみこ》さん。く、久美子さんは佐間太郎《さまたろう》と一緒の部屋なんだから、朝ぐらい譲ってくれてもいいんじゃないですかあっ?んぐぐぐ……」 「てっ、テンコさんだって、今までずっと神山《かみやま》くんと暮らしてたんだから、わたしに譲ってくれてもいいです…─…:よ、ねっ?ううう」 テンコと久美子は、顔を近づけながら会話をする。二人しかいないのに、満員電車さながらの圧迫である。 ---------------------[End of Page 12]--------------------- 「それにテンコさん、神山くんのこと、なんとも思ってないんでしょ?」 久美子の=言に、テンコは言葉を詰まらせた。 「なp門も、もちろん、なんとも思ってないです。ただ、あいつは朝が弱いから、あたしが起こしてあげないとダメかなって、それだけですし……」 「大丈夫です、わたしが起こしますから、安心してくっ、だっ、さっ、いっ」 心の動揺をついて、久美子が体半分だけ前に出る。テンコは置いていかれないように、姿勢をさらに前へと傾《かたむ》けた。 「ぬぎゅぎゅぎゅうつ。ダメなんですっ。佐間太郎は、あたしが起こしてあげないとダメなんです。だから久美子さんじゃダメなんですっ」 「どうして、わたしじゃダメなんですかっ?」 「コツが、いるんです、コツがっ1」 「どんなコツですか?」 「それはニュアンスとかフィーリング的な問題だから、教えられないんですっ!」 ズズズズッとテンコの体が壁際を滑り、次第に久美子が押しのけられる形になる。激しい1あまりにも激しすぎる戦いである。見た目は地味で仕方ないけどもつ! 「テンコさんっ」 それまで二階に視線を向けていた久美子だったが、不意にテンコの方に顔を向けた。 「な、なに?」 ---------------------[End of Page 13]--------------------- 「わたし……この前─…──神山《かみやま》くんに襲われちゃいましたヨ」 プシュウウウウゥウウウウウ。 彼女の言葉を聞いた途端、テンコの頭から真っ白な湯気が勢いよく噴《ふ》き出した。驚くと頭から湯気を出すのは天使の特徴ではない。彼女だけが特別なのだ。テンコは目をグルグルと回しながら、完全に混乱した頭で叫《さけ》ぶ。 「お、おそわっPおそわっPそわれましたおっ12」 「なんちゃってー」 薄い唇の隙間《すきま》から、真っ赤な舌をペロッと出して久美子《くみこ》は笑った。テンコはその時に、さきほどの言葉が彼女の作戦だということにようやく気づいたのである。気の抜けたテンコをかわし、久美子は「サバダバダサバダバダ」という音と共に階段を駆け上った。 「ちょっと久美子さん1卑怯《ひきよう》じゃないですか1そんな嘘《マつル 》ついて1この悪魔っ1」 「えへ。だってテンコさんが譲ってくれないからですよ。今日はわたしの勝ちですね」 こうして勝利の女神は久美子に微笑《ほほえ》んだ。なんの勝負なのか全然わからないけれど、とにかくそういう結果になったらしい。拍手を贈ろう。ぱちぱち。 久美子はいそいそと佐間太郎《さまたろう》の部屋のドアの前に立ち、前髪を手で整える。 その背後からは、ものごっつい猫背のゾンビ(よく見るとテンコだった)がグッタリした様子でやってくる。 「それじゃあテンコさん、今日はわたしが神山くんを起こすってことで」 ---------------------[End of Page 14]--------------------- 「う、うん。わかりました。だから早くやっちゃって」 「はいっ1こほん。神山くうーん、朝ですよー─」 久美子はとびっきりの笑顔を作ると、目の前の部屋のドアを開けた。 「きゃあああああああl」 部屋の中を見た瞬間に上がった久美子の叫び声を聞いて、テンコはビクッと体を震わせる。 「ちょっと久美子さん、どうしたのー7」 「いやあああ、神山くんが、襲われてるH」 「えっー7 襲われてるって、なににP…」 慌《あわ》ててテンコは彼女の元に駆け寄ると、部屋の中を覗《のぞ》き込む。 「ほ、本当っ!佐間太郎が襲われてる1コタツにーー”」 ベッドの上に佐間太郎の姿はなく、その代わりにコタツがドベーンと存在していたのだ。 そしてコタツからは、彼の足だけが助けを求めるようにして飛び出している。まるでコタツに頭から食べられてしまったかのような、壮絶《そうぜつ》な光景だ。地獄と言っても過言ではないだろう。 「ちょっと佐間太郎、大丈夫p」 テンコは部屋の中に入り、コタツから出ている足を掴《つか》んだ。 「うっ」 ---------------------[End of Page 15]--------------------- 掴《つか》んだ瞬間、離した。むしろ、投げ捨てるようにして離した。 「ちょ、ちょっとテンコさん、なにしてるんですか1助けなくちゃ1」 続いて久美子《くみこ》が彼女の捨てた足を掴んだが、やはり「はう」と言って離してしまう。 そう、コタツから飛び出た足は、とてつもなくジットリとしていたのだ─・ なぜだ、なぜジットリとしているのだ1はっPこれは、汗だ1長時間、頭からコタツの中に突っ込んでいたために、汗をかいてしまったのだー─ 「うひ〜、くるしいいいい」 コタツ布団《ふとん》の中から、佐間太郎《さまたろう》の弱りきった声が聞こえてくる。今すぐ助けなくては、どうなってしまうかわからない。だが、二人は顔を見合わせながら、居心地が悪そうにしている。 「ど、どうしようコレ」 「どうしますか?出してあげたいけど、ジットリしてますし……」 「ね。ジットリだもん。放《ほう》っておく?」 「そ、そうします?」 「いや、助けろよ1」 コタツの中から佐間太郎が叫《さけ》ぶが、二人は「あれ?今なんか聞こえたかな?」「いや、気のせいかもですね」などと言いながら部屋を後にしようとする。 「ちょ、ちょっと待て1早く、早くしないと1本当に1」 ---------------------[End of Page 16]--------------------- 真剣に困っているようだったので、テンコと久美子はティッシュで彼の足を拭《ふ》いてから、片足ずつ持ってコタツから引き抜くことにした。 「せーのっ、うんぐうううう」 何度か力を入れると、ようやく佐間太郎はズリズリとコタツから這《は》い出てきた。モワッとした熱気がコタツ布団の隙間《すきま》から漏《も》れ、運動部の部室っぽい嫌な感じがする。 「だああああ1はあはあはああはあ、死ぬかと思ったあ…───」 ようやくコタツから引きずり出された佐間太郎は、肩で息をしながら額の汗を拭《ぬぐ》う。 「寝てる時に気配を感じたんだ。目を開けた瞬間、コタツが飛んできて頭から食われた」 怪奇現象であろうか。ぜひみなさんも、寝ている時にコタツに襲われないように注意していただきたい。 「えーと。そのコタツ、動いてません?」 無人になったはずのコタツを見て、久美子が言った。テンコも同じことを思っていたので、うんうんと頷《うなず》く。佐間太郎も不思議に思い、コタツに顔を近づける。 「シヤアアアアアアアア1」 「うわあああああああああああ1」 彼が顔を近づけた瞬間、コタツの中から手が飛び出てきたのだ.、慌《あわ》てて飛びのいたために掴まれなかったが、あまりの出来事に三人は言葉を失った.. 「も:1なによ1あたしと佐間太郎ちゃんの時間を邪魔しないでよねー!」 ---------------------[End of Page 17]--------------------- うわー、この声、聞いたことあるぞー(棒読みな感じで)。 「ねえ佐間太郎《さまたろう》、もしかして、あの中にいるの……」 テンコは完全に答えがわかっていたが、あえて彼に聞いてみた。佐間太郎はため息をつき、力の抜けた声で言う。 「オフクロ、コタツの中から出てきてくれ」 「いやーん1佐間太郎ちゃん、ママさんだってわかったーー9」 シュポン1という音が五回して、コタツから二本の手と二本の足、そして最後に顔が飛び出した。中に入っていたのは佐間太郎の母親であり女神でもある、神山《かみやま》ビーナスであった。 ビーナスこと通称ママさんは、まるでカメの甲羅のようにコタツを背負い、そのままの姿でズリズリと三人に近づいてきた。 「いやーん、もう冬だしね、寒いじゃない?だからコタツ出そうと思って。そしたらヌクヌクしてて気持ちよくてねー1離れられなくなっちゃったー」 確かにコタツに一度入ると、出るのが億劫《おつくう》になることはある。しかし、そのままコタツを背負って移動するなんて、誰《だれ》が思いつくだろうか。それでこそ女神なのか。 「オフクロ1今すぐ出ろ1そっから出ろ!見た目が怖い1その姿でゆっくりと近づいてくると怖いから1」 「なーんで?いいじゃない。もしかして照れてるの?かわいーんだからっ,」 ---------------------[End of Page 18]--------------------- コタツから手足と顔だけ出し、ニコニコと笑うママさん。オカルトである.、 「あの、それはいいんですけど、どうして神山くんを食べたんですか?」 久美子《くみこ》が聞くと、ママさんは急に怖い顔になって彼女のことをキッと睨《にら》んだ。 「なによ、チョロ美もいたのー9」 ちなみに、彼女は久美子のことをチョロ美と呼ぶ。理由は謎《なぞ》である。 「ふふ、コタツのヌクヌクさを、佐間太郎ちゃんにも教えてあげようと思ってね。それで、引きずり込んだの!中で、ほっペスリスリとかしちゃったわよー、だって佐間太郎ちゃんかわいんだもん、顔を赤くしちゃってさ1ママさんの愛情に照れちゃった?」 「顔が赤いのは暑かっただけだうが!」 「あらそう?ママさん暑くないもーん.、だってこの中、ハダカよ?快適っ」 そう言って彼女は、コタツから出した脚をピラピラと揺らした。太ももの辺りまで見えているので、本当に中はなにも着ていないのだろう。なんて女神だ。 「ふう、もういい。あんなコタツは放《ほう》っておいて朝メシでも食おうぜ」 佐間太郎はそう言ってさっさと部屋から出て行ってしまう。テンコと久美子も、微妙な恐ろしさを感じて一階へと下りていった。 「あらもう、佐間太郎ちゃんたら恥ずかしがっちゃって!本当は嬉しいくせにーママさんもゴハン食べにいこーっと1」 ズリズリと進む姿は、亀《かめ》というよりはカタツムリである。巨大なカタツムリは、当然の ---------------------[End of Page 19]--------------------- ごとくドアにつっかえた。 「あれ?これ、出られないわね。どうしましょ。うんしょ、うーんっ、うむむむっ。わーん!誰《だれ》か助けて1出られません─・ママさん、出られませんよ1ヘルプミi1」 ママさんはコタツを背負ったまま部屋から出ようと必死になって努力する。コタツから出ればいいのだが、そんなアドバイスをしてくれる人は誰もいなかった。寂しい.、 えーと。そんな、偉大なる神様家族、神山《かみやま》家の朝.”日常のヒトコマでした。 世田谷区《せたがやく》の住宅地を、佐間太郎《さまたろう》と久美子《くみこ》、そしてテンコは学校へと向かって歩く。 先頭を佐間太郎が進み、そのすぐ後ろを久美子がくっついている。テンコは不満そうな顔をして、少し離れた後方をテケテケと歩いていた。 「ねえ神山くん。神山くんて、どんな女の子が好きなんですか?」 久美子はテンコの方をチラッと見てから、そんな質問を彼に投げかけた。 「どんなって言われてもなあ……。うーん、よくわからない」 「え?小悪魔的な魅力を持ってる子?やだ、悪魔だなんて!きゃっ」 「言ってないよね?久美子さん、そんなこと言ってないよね?─」 「うん?言ってなかった?ごめんなさい、やだ、わたしったら……」 三人が通う菊本《竜」くもレ’》高校の制服、男子はシャツにズボンと一般的だが、女子のワンピースは体にピッタリとフィットする特徴的なものだった。白い生地にオレンジ色のラインが入っ ---------------------[End of Page 20]--------------------- ており、スカート部分が大胆に短く瞳《ひとみ》に眩《まふ》しい。冬用のコートに包まれていたとしてもその魅力が損なわれることはない。佐間太郎は、久美子の制服姿に見とれないようにして、なるべく前を向いて歩くように心がけた。 「久美子さんてやっぱり、前より明るくなったよね」 彼は彼女の方は向かずに言う。それは、素直な感想だった。久美子が神山家に居候《いルこつろう》してきた当時は、大人しくて口数も少なかったのである。だが、数ヶ月経った今では、とてもよく喋《Lや!へ》るし、とてもよく笑う。 「そうですか?」 「うん、そうだよ。そうだって」 「えへへ。あのね。それはきっと、好きな人の側《そば》にいるからですよ」 「えっ?」 瞬間・世田谷・恋色。(キャッチコピー?) 「あの、え?な、なんて?」 「聞こえませんでしたか?だったら、もっと近くで言っちゃいますけどいいですか?」 彼女はイタズラっこのような微笑を浮かべると、彼の耳にかかった髪の毛をかきあげ、キスするようにして顔を近づけた。 「うわああ1ちょ、ちょっと久美子さんPな、なにすんのー9一」 「いいから、ね?それとも、わたしが近づいたら迷惑ですか?」 ---------------------[End of Page 21]--------------------- 「迷惑じゃないけど」 二人はゆっくりと接近する。シャンプーの香りが佐間太郎《ζ噌またろ・つ》をくすぐる。 「よく聞こえるように、近づくだけです。ちゃんと聞いてくださいね、忘れないように」 「あ。うん……」 パコーン1 「え?」 不意に大きな音が聞こえた。まるで、電柱を裏拳《うらけん》で叩《たた》き割ったような豪快な音である。 二人は驚いて振り返ると、そこには……。 「ふうーふうーふうー……」 電柱を裏拳で豪快に叩き割ったテンコが、呼吸を荒くして立ち尽くしていた。 「ちょっと佐間太郎。こっちおいでなさいっ」 怖かった。顔は笑顔だったものの、彼女の声には何者にも抗《あらが》えない迫力があった。 「久美子《くみこ》さん、少し待ってて。ちょっと急用が」 「う、うん。確かにあれは急用みたいですね……」 久美子は困ったような笑顔を浮かべると、ヒビの入った電柱の元へ向かう彼に小さく手を振った。「少し待っててね」っていうだけの話なのに、胸の前で手を小さく「ばいばいっ」と振る久美子のかわいさよ。裏拳で電柱にヒビいわす誰《だれ》かとは大違いである。 「おい、お前、電柱にヒビいわして、なんなんだよP」 ---------------------[End of Page 22]--------------------- 「いいからこっちおいで1こっち1」 テンコは佐間太郎の耳をグイッと引っ張ると、久美子の目の届かない場所まで連れて行った。 「いででででで!なんだよ、なんだってんだよ!」 「なんだじゃないそー!あのね佐間太郎、少しデレデレし過ぎなんじゃないですかっ1それでも次期神様候補なのー9”もうちょっと威厳《いげん》を持ってもらわないとコチトラ困るんだけどっー−・」 いやいや、威厳が云《うんぬん》々なんて話、今まで言われたことないような気もするんですが。 佐間太郎は困惑気味に、とりあえず「うん」と返事をした(怖いから)。 「それと、久美子さんにあんまり近づかないこと」 「なんでP…」 「なんで?なんで?なんでってどういうこと、そんなに近づきたいのー9」 「いや、その、あれは俺が近づいたわけじゃないし」 リスみたいに頬《ほお》を膨《ふく》らましたテンコは、持っていたカバンを胸の前に抱きしめて言う。 「あんまり女の子にデレデレしてると立派な神様になれません。だからです」 「そういうもん?」 「そういうもんです。この、天使のテンコノートにも書いてあります」 彼女はそう言って、制服のポケットから小さなノートを取り出した。佐間太郎が覗《のぞ》き込 ---------------------[End of Page 1]--------------------- むと、日付は七月で止まっている。 「お前これ、全然使ってないじゃん。もう冬だぞ?」 「つ!使ってます1天使にしか見えない不思議なペンで書いてるんです!そもそも、人のノート覗《のぞ》かないでよね!」 「見せてみろ、不思議なペン」 「えっ!」 かなり胡散臭《うさんくさ》そうな顔をして、テンコのことを見つめる佐間太郎《さまたろう》。 しまった、これでは不思議ペンが嘘《うそ》だとバレてしまうではないか。彼女はカバンからペンケースを取り出すと、中からヒョイと一本のペンを取り出す。 「はい、テンコの不思議ペン。天使限定。ちょーっす」 「いや、マッキー黒って書いてあるじゃん。油性って」 「ムキー!違うでしょ1それはカモフラージュでしょ!不思議ペンは不思議だから盗まれたら困るでしょp”だから、普段はさもマッキーかのように油性なのよ1」 「じゃあ、それで書いてみ」 「え?」 「そのノートに、書いてみ。天使にしか見えないんだろ?」 「う、うん……」 テンコはマッキーのキャップを取ると、ノートになにやら書き始めた。ペン先が紙に当 ---------------------[End of Page 2]--------------------- たった瞬間、ジュワッと黒のインクが染《し》み出る。天使にしか見えないなどと言いつつ、どう見てもただのマッキーなので、当然佐間太郎にも見えている。 「えーと」 とりあえず彼女は「テンコ」とだけ書くと、パタンッとノートを閉じてマッキーをペンケースにしまった。無言で自分を見つめる佐間太郎に向かって、なにか言わなくては、なにか言わなくてはと考えた結果、一言だけ告げる。 「いまのわ、しゅつばい」 てへっ、とわざとらしい笑顔を浮かべるテンコ。その様子を見て、佐間太郎は彼女のペンケースに手を出そうとする。 「なにが失敗だコラ!不思議ペンなんてただの嘘だろ1マッキー見せろ!」 「わあああ、ダメだって、これ、天使だけが触っていいの!神様が触ったら大変なことになるから!」 「大変なことってなんだ!あP」 「えp”あ、えと、指にインクがつく!それに油性だからなかなか取れない!」 「やっぱりそれ普通のペンじゃねえか1」 「なによもー1マッキーになんか文句あんのー7一あんたが久美子《くみこ》さんにデレデレするから悪いんでしょ1バカ!」 少し離れた場所で、久美子は電柱に寄りかかっていた。遠くから二人が罵《ののし》り合う声が届 ---------------------[End of Page 3]--------------------- いてくる。それを聞いて、彼女は思わず吹き出してしまった。 いつもケンカばかりしている佐間太郎《さまたろう》とテンコ。だが、久美子《くみこ》には全部わかっていた。 二人が本当に仲が悪いわけではないことを。 二人とも好き同士のはずなのに、どうして上手《ロつま》くいかないのだろうかと久美子は考えた。 きっと、そうだ。うん、素直じゃないのだ。意地を張って、自分の気持ちに素直になれない。もしかしたら、友達でいた時間が長すぎたことが原因なのかもしれない。 だから久美子は、佐間太郎に積極的にアタックするようにした。そうすれば、テンコが自分の気持ちに自覚的になって、彼に対して気持ちを打ち明けるのではないか、と。 「でもね……」 でもね。こうも思っているよ。もし積極的にアタックした結果、佐間太郎が自分のことを選んでくれたら嬉《うれ》しいなって。 二人が好き同士なのは知ってるけれど、わたしだって彼のことが好き。 好きだからこそ、佐間太郎には幸せになって欲しい。だけど、それが自分以外の女の子と結ばれることだなんて。幸せにはなって欲しいけど、それは、その、悲しすぎる。わたしだって幸せになりたい。 久美子は、そんな複雑な気持ちを抱えつつ、佐間太郎にアタックを続けているのだ。 「もしテンコさんが素直になってくれて、二人が結ばれれば、わたしは幸せ」 それだけで幸せ。彼の笑顔を見られれば、幸せ。 ---------------------[End of Page 4]--------------------- 「でも、もし、万が一、佐間太郎がテンコさんじゃなくてわたしを選んでくれたら、もっと幸せ」 本当に望んでいるのは、それだけなのに。だけど、そこまでわたしは素直にも意地悪にもなれない。なんだ、結局自分もテンコさんと同じなんだ。わたしだって意地っ張りなんだ。テンコさんのために積極的になってますって言い訳がないと、大好きな人に気持ちを伝えることもできないんだ。結局同じじゃない。わたしだって、同じじゃない……。 揺れ動く乙女《おとめ》心。瞬間・世田谷《せたがや》・涙色。 そんな彼女の夢見がちなモノローグなどまったく知らずに、佐間太郎とテンコは顔を鷲掴《わしつか》みし合いながら「嘘《うそ》じゃねえか」「嘘じゃないもん」などとくだらない言い争いを続けるのであった。 「あれ、久美子ちゃん、どしたの一人で?」 「あ、霧島《きりしま》くん。神山《かみやま》くんとテンコさんがケンカしてて、今待ってるところ」 クラスメイトの霧島進一《しんいち》は、どこからか聞こえてくる罵声《ばせい》に耳を澄ますと、しゃーねーなーと笑った。 「相変わらずだね、あの二人も」 「うん。そう。ちょっと羨《うらや》ましいけどね」 久美子は困ったように笑った。まるで二人の保護者みたいな笑顔だった。 進一はそんな彼女を見て思った。 ---------------------[End of Page 5]--------------------- 「かわいい」 「え?」 「いや、なんでもない。えーと、だったら二人を置いて先に行こうよ」 彼は久美子《くみこ》の手を掴《つか》むと、強引に歩き出す。彼女は困惑した様子で言った。 「わ。ダメですよ、わたし、二人を待ってないと」 「いいのいいの、そんなに気を使うことないって。放っときゃくるし」 「でも、霧島《きりしま》くん、橘《たちばな》さんと一緒に学校行くんじゃないの?」 「大丈夫大丈夫、愛《あい》ちゃんは今日、遅刻するって。なんでも昨日テスト勉強してて寝過ごしたらしいよ。今度一緒に勉強しよ:って言ったんだけどね。うんうん。まあとにかくほら、気にせずに気にせずに」 久美子の手は、とても冷たかった。冷え性なのだろうか?進一《しんいち》はその手を自分の顔まで持っていき、サスリサスリと頬《ほお》に擦《す》り寄せる。 「わわー7一霧島くんP”なに17」 「いあいあ、冷たいから温めようかなって。むしろ、温めたい!久美子さんの心を俺《おれ》が温める!」 ニヘラ〜と笑う彼は、完全に一線を越えている。彼には橘愛という恋人がいるはずなのに、こんなことしてていいのだろうか。久美子は窺《うかが》うようにして聞いてみた。 「あの、こんなことして橘さんに怒られない?」 ---------------------[End of Page 6]--------------------- 「ダイジョーブダイジョーブ、バレなきゃ平気」 「でも、バレたら?見られたら?」 「見られないって。だって愛ちゃん、寝坊したから、遅れるって言ってたもん!─」 「でもいるよ、後ろに」 「ナヌ?またまた、久美子さんたら冗談きっついんだから〜」 進一は、久美子が冗談を言っているのだと思った。、いやいや、いるわけないじゃないですか、さっきだって、携帯に連絡入ったもの。今日は遅くなるって。でも、念のため、万が一ってこともあるから、ゆっくりと、そっと、これ、背後を、振り返って……。 「いたああああああああああああ1」 愛は道路のど真ん中に仁王《におう》立ちであった。拳《こぶし》を握り締めていた。血の涙を流していた。 いや、そりゃ言い過ぎだ。血の涙は流してはいない。でも、それぐらいのパワーはあった。 「……進一くん。な、な、なな、なにしてるのかな?」 口調が優しいからこそ怖い。知っておいていただきたい。女子というのは、感情を隠そうとすると丁寧な言葉づかいになる。そして、そうなった時には手遅れなのだ。 「いや、あの、これは、その、幻だ!愛ちゃん、きみが見ているのは幻だ1俺は進一じゃない1本当の進一はもう学校にいる!俺は、その、愛ちゃんの心が生み出した幻覚に過ぎないのだ!」 「ふーん。幻覚ですか」 ---------------------[End of Page 7]--------------------- 三つ編みにした黒髪をユラユラと揺らしながら、ゆっくりと愛《あい》は彼に近づいてくる。 「は、はい。俺《おれ》は幻覚です」 「そっか。じゃあ、痛みは感じないよね?」 橘愛《たちばな》、とびっきりのスマイル。進一《しんいち》がこんなにも素敵な彼女の笑顔を見たのは、その時が初めてであった。 「進一くん、鎖骨《さこつ》だしてっ☆」 そんな要求、普通はしない。だが、どんな要求であったとしても、進一が断れるような状況ではない。彼はシャツのボタンを外すと、鎖骨を出して彼女の方を向いた。 「は、はい。出しました」 「じゃ、割るね☆」 どうして愛がトンカチを持っていたのか。そんなことは些細《ささい》な問題である。彼女は思い切りトンカチを振り上げると、勢いよく進一の鎖骨に叩《たた》きつけた。 ゴペディッ。 「ぎゃああああああああああああ!地味な音だけど激痛があああああああ!」 その場に倒れ込み、ゴロゴロとのたうち回る進一。愛は笑顔で彼に「じゃ、学校で待ってるから1」と言うと、久美子《くみこ》の手を引っ張って去って行ってしまった。 「割れた1鎖骨が割れた!きっと割れた!」 遠ざかる彼を見ながら、久美子はこんなことを思っていた。 ---------------------[End of Page 8]--------------------- いいな、誰《だれ》かに嫉妬《しつと》してもらえるのって。わたしは誰にも思ってもらえない。 というか、少しぐらい怪我《けが》の心配もして欲しいものである。 佐間太郎《さまたろう》とテンコのケンカも終わり、そろそろ遅刻しちゃうわねと歩き出すと、口から泡を吹いた進一が道路に倒れていた。 「ねえ佐間太郎、なにあれ?」 「さあ?またなにかやったんだろ。あれ?久美子さんがいないな」 久美子がいないことに気づくと、彼はなんとなく気の抜けた顔になった。久美子がいる時といない時では、表情が微妙に違うのだ。それ見たテンコは、軽く舌打ちをした。 「チッ!チッ1ヂッ!ヅイッ!ヅイヅィッ1ぺっ!カーッ、べっ!」 全然軽くなかった。むしろ唾《つば》まで吐いてる。 「はあはあ。久美子さんなら、愛ちゃんと先に行ったよ……」 苦しそうに進一が告げると、二人は顔を見合わせた。 「そっか。わかった、ありがとう。ばいばい」 「じゃあ、あたしたちは遅刻しちゃうから。またねー」 「待てよ!置いてくのかよ1鎖骨イワしてんだぞ1」 さりげなく放置しようとしたが、さすがに置いていかれると気づいたようだ。彼はワーワーとわめき、自分も連れて行けと訴える。 ---------------------[End of Page 9]--------------------- 「ったく、うるせーな」 佐間太郎《さまたろう》は進一《しんいち》の手を取り、肩を貸すような形になって一緒に学校へと向かった。 その最中、彼はずっと「なんかもう、お腹がシクシク痛い、シクシク痛い」と眩《つぶや》いていたので、気の毒になったテンコは途中でドラッグストアに寄ることを提案した。 「保健室連れて行けばいいじゃん。しかもなんで腹痛起こしてんのかわかんないし」 「そうだけど、心配じゃないの。ひとまず冷やすものだけでも買ってあげよ?」 「ありがとうテンコちゃん、マジで助かるよ。まるで天使だ」 「ーー・」 その瞬間、佐間太郎は進一からパッと離れた。彼はバランスを崩して顔面からビトーン!とアスファルトに叩《たた》きつけられる。 「なにすんだ!痛えだろ!ふざけんな1」 そう。佐間太郎が神様の息子であること、そしてテンコが天使であることは、神山《かみやま》家以外の人間(と、久美子《くみこ》)以外には秘密なのである。急に進一が真実を突いたことを言ったものだから、佐間太郎は驚いて思わず彼を放してしまったのだった。 「ちょ、ちょっと佐間太郎。今のはその、ほんの表現よ、表現」 「あ、そうか。そうだよな、あはは。すまんすまん」 「じゃあたし、買ってくるから。待っててね、ピユーッ(ダッシユ)1」 ドラッグストアの中にテンコが入って行くのを、二人は店の前でボンヤリと眺《なが》めていた。 ---------------------[End of Page 10]--------------------- 彼女が店内に入ったのをしっかりと確認してから、進一はいやらしい笑顔を作って言う。 「いやあ、しかしテンコちゃんて良い子だよなあ.、お前、あんな子が彼女で幸せだなあ」 「彼女じゃねえよ1付き合ってねえし1」 「あれ?そうだっけ?」 「そうだよ。ふざけんな、なんであんなやつと……」 佐間太郎の目に、ドラッグストアの店内でカゴを持って歩き回る彼女が映った。 「確かに悪いやつじゃないんだけど、暴力的過ぎだよ。それに、かわいげがなさすぎる。 それに比べて……」 それに比べて久美子は、暴力は振るわないし、かわいげあるし、テンコとは正反対だ。 どうせ付き合うなら、久美子のような女の子がいいだろうなと彼は思っている。色々と尽くしてくれそうだ。うんうん。 「じゃあ、久美子ちゃんが彼女なのか?」 「いや……。彼女ってわけじゃないけど」 佐間太郎の煮え切らない態度に、進一は大げさにため息をついた。 「ハi、幸せ者はいいねえ。俺《おれ》なんて鎖骨《さこつ》とか割られてんのにさあ。それにしてもテンコちゃん、あんなに尽くしてくれてるのに浮かばれねえな」 「バカ、あいつは好きでやってんだよ、それに俺に尽くしてるわけじゃないだろ。お前の怪我《けが》が心配で買い物してるんだから」 ---------------------[End of Page 11]--------------------- 「へいへい。そうですそうです」 「……なんだよ」 テンコが打撲用のコールドスプレーをレジに持って行くのが見える。言われてみれば、彼女には色々と世話になっていた。ただ、それがあまりにも当たり前になってしまっていて、尽くしてもらっているという気がしない。そう、二人の仲は当たり前になり過ぎてしまったのだ。だから、今さら付き合うとか付き合わないとか、そんなのは居心地が悪い。 佐間太郎《さまたろう》は、テンコの顔を見ながら小さく眩《つぶや》いた。 「つうか、今だって付き合ってるようなもんじゃねえか」 「え?なんだって?」 「なんでもない。ん?なんだあれ?」 レジでお金を払っている彼女の近くで、小学生ぐらいの男の子がポケットになにかを入れるのが見える。ハッキリとは確認できなかったが、周囲をやたらと気にしながら、逃げるように出入り口へと歩き出すところを見ると万引きではないだろうか。 男の子に置いていかれそうになったのか、白いワンピースを着た幼い女の子が慌《あわ》てて彼を追う。顔はそれほど似ていないものの、雰囲気で兄妹《きようだい》なんじゃないかと感じた。 「やべえ。面倒くさいもん見ちゃったなあ」 佐間太郎は無言で立ち上がると、進一《しんいち》を置いてドラッグストアの店内へと入る。 「おい、ボウズ」 ---------------------[End of Page 12]--------------------- 出入り口のすぐ近くで、佐間太郎に声をかけられた少年は立ち止まった。 「あのな、お前、なんか盗《レぜ》ったろ?そのままドア出たら、万引き防止のブザーが鳴るぞ。 大人しく戻せよ」 彼は驚いたような顔をしたがnすぐに佐間太郎を睨《にら》みつける。 「なんだよオジサン、証拠あんのかよ?」 オジサン!その一言で、彼の頭にピキッと血が集まった。彼は神様の息子なのだから、人間として寿命を迎えても天界に戻るだけだし「死」という概念は存在しない。しかし、憎たらしい顔をした子供に面と向かって「オジサン」と言われては、理屈抜きで腹が立つというものだ。 「ガキンチョ1てめえ、戻せよな1コ、コノヤロオ1」 どっちが子供かわからないような感じで、彼は叫《さけ》ぶ。少年の後ろでは、妹が佐間太郎の真似《まね》をして「ガキンチョ1ガキンチョ!」と無邪気に叫んでいた。きっと、なにが起こっているのかもわからないのだろう。 う。イカン。さすがに、妹のいる前で怒鳴《どな》りつけるというのも、コイツの兄としての威厳《いげん》を奪ってしまうことになる。もうちょっと冷静に、冷静に……。 「コホン。いいかいボウヤ、労働というのはね、とても大変なことなんだよ。そういう、大変な思いをして稼《かせ》ぐお金。そのお金を払ってお買い物。ね?だからボウヤ、泥棒はいけないんだよ?わかるかな?」 ---------------------[End of Page 13]--------------------- ボウズ頭の少年は、頭をポリポリとキッチリニ回かいて、店内にツバをペッと吐いた。 「なにわかった口きいてんだよ。お前こそ労働なんてしたことあんのかよ。どこにでもあるような説教並べて子供を言いくるめられると思うなよ。さ、わかったらどけよ。俺はなにも盗《レ 》っちゃいねーんだ。なんなら調べるか?俺の体中全部。もしなにも出てこなかったらどうしてくれんだよ?責任取ってくれんのか?いたいけな子供の心に傷を残すことになるぜ?」 ムカつく。底抜けにムカつく。なんなんだ、このガキは。佐間太郎《さまたろう》は正露丸《せいろがん》のビンとかで頭プン殴ってやろうかとも思ったが、彼が言う通り万引きをした瞬間を目撃したわけではない。それっぽい素振りを見ただけなのだ。もし少年がなにも盗っていなかったら、佐間太郎の立場はなくなってしまう。 「お兄ちゃん、早く帰ってテレビ見ようよお、お兄ちゃん、帰ろうってばあ1」 少年の背後で、頭のユルそうな妹が大声を張り上げる。佐間太郎はギョッとしたが、店員は誰《だれ》も気にする様子がない。きっと、うるさい子供の相手には慣れているのだろう。問題を起こすのは得策ではないから、無視することにしているのだ。なんて冷たい社会なのだろう。怖いね、東京。 「お兄ちゃん、はやくう、帰ろうってばあう、ね、兄ってばあ」 少女は少年の服の袖《そで》を掴《つか》み、グイグイと引っ張っている。少女は汚《よご》れのない、膝丈《ひさたけ》の白いワンピースを着ていた。それに比べて少年は、何日間も着続けたような薄手のパーカー ---------------------[End of Page 14]--------------------- に、所々が擦《す》り切れた半ズボンである。 「オジサン、いい加減どいてくれよな。証拠はないんだからな。どけどけっ」 彼はそう言って、佐間太郎《さまたろう》にズイッと近寄った。それに倣《なら》い、妹も前に出る。 「そうだ、どけどけ、さまたろっ」 突然自分の名前を呼ばれ、彼は声を上げた。 「え?」 「うえ?」 それを真似《まね》するようにして、少女も嬉《うれ》しそうに声を上げる。どうしてこの子供は、佐間太郎の名前を知っているのだろうか。 「おい、オジサン。ボケッっと立ってるなよ。邪魔だろ?」 「あ、うん……」 不思議そうな顔をしたまま、佐間太郎は道を譲った。途端にその少年は、今がチャンスだとばかりに走り出した。 入り口を彼が通り過ぎるのと同時に、異状を知らせる電子ベルが鳴る。予想通り、彼は万引きをしていたのだ。 「ちょ、なに、佐間太郎ー7…あんた、万引きしたのー7”もう、欲しいものがあったら言ってよ、三百円までなら買ってあげるから!」 支払いを終えたテンコが駆け寄り、情けない、うちの人ったら情けない、という声を出 ---------------------[End of Page 15]--------------------- した。 「違うって1俺《おれ》じゃない、子供が万引きしたんだよ1」 「すぐそうやって人のせいにして1はい、頭出して1」 「だから本当だってば!」 ピヨピヨピピピヨとベルが鳴り響く中、進一《しんいち》が入り口からひょろっと顔を出した。 「なあ、コイッ……だよな?捕まえちゃったけど、よかったのか?」 見ると、少年を抱えるようにして彼は立っていた。足元では妹が「あi1お兄ちゃんを放してっ1お兄ちゃん!こーらっ!こおーらあーっ1」と騒いでいる。、 「う、うん。そいつそいつ」 少年と佐間太郎を交互に見て、テンコは不思議そうな顔をしている。 「あり?間違いをおかしたのは佐間太郎じゃないの?」 「だから違うって言ってんだろ……」 「てへへ、ごめんて。ごめんて」 「はいはい、ちょっとごめんよ、ごめんよ」 そう言いながら店の奥から現れたのは、白衣を着た若いドラッグストアの店員だった。 彼はムスッとした様子で、いかにも「面倒くさいトラブルはごめんだ」という顔をしている。 「きみら学生?ごめんね、迷惑かけてさ。じゃ、そこのガキ渡して」 ---------------------[End of Page 16]--------------------- 進一《しんいち》が戸惑《とまど》っていると、店員は遠慮せずに少年の腕を掴《つか》んで自分の方へと引き寄せる。 その一連の動作が、あまりにも乱暴だったのでテンコは「あっ」と声を出してしまった。 服が破けそうになるほど力強く掴まれているのだ。 「コイツ、常習犯なんだよね。いっつも盗んでくの。怒っても懲《こ》りねんだから、この前はボコボコにしてやったのにさ。まだわかんねえのかよ。ほら、警察行くそ」 「け、警察P」 店員の言葉に、テンコが持っていた買い物袋を落とす。 「待ってください、まだ子供じゃないですか。それなのに警察に連れて行くんですか?」 「当たり前だよ、こっちだって商売だからね。金払ってもらえないと困るんだ」 「だったらあたしが払いますから、おいくらですか?」 佐間太郎《さまたろう》は慌《あわ》てて彼女の手を掴んだ。既にカバンから財布《さいふ》を取り出していたからだ。 「おいおい、待てよ。悪いのはこの子供だろ?。俺《おれ》にオジサンって言ったんだぞ」 「なに言ってんの。子供なんだから間違うこともあるわよ。ちゃんと叱《しか》ってあげないと」 「お前ら!俺を子供扱いすんなあ!」 二人が言い合っていると、少年は店員に首根っこを掴まれながらも苛立たしげに反論をした。それに腹が立ったのか、店員は少年の腹に突然蹴りを入れる。彼は「うっ」と言って床の上に樽《うずくま》り、そのまま黙り込んでしまった。 「ちょっと、やり過ぎじゃないですかP」 ---------------------[End of Page 17]--------------------- 驚いたテンコが言うが、店員は興味なさそうに答えた。 「で、払ってくれんの?くれないの?」 テンコと佐間太郎は視線を合わせて戸惑う。少年の妹は、入り口に立っている進一の足をギュッと掴んで心配そうにその様子を見ていた。 「あの、払わせてください。お願いします」 面倒くさそうに店員は答える。 「はいはい。じゃあ、あんたから二度とやらないように、ちゃんと言ってくださいね。またやられると迷惑ですしね。初めてじゃないわけですしね。常習犯ですよ、常習犯」 「はい、すみません。許してください、お願いしますっ」 最後にはテンコは大きく頭を下げて、まるで自分のことのようにして謝った。さすがにその様子を見て、店員もバツの悪そうな顔をする。 「わかりましたよ。そのかわり、もし次にやったら本当に警察連れて行きますからね」 テンコの顔はぱっと笑顔になる。 「はいっ、ありがとうございます!」 「それじゃ、二万六千円です」 その金額を聞くと、彼女は笑顔のまま振り返って佐間太郎に言った。 「佐間太郎お金貸して1」 「ねえよ1」 ---------------------[End of Page 18]--------------------- 「けちっ!」 予想以上の高額な請求に、テンコは目に涙をうっすらとためた。少年は高価な栄養ドリンクや風邪《かぜ》薬、ビタミン剤などを大量に盗んでいたらしい。テンコは財布《さいふ》の中から、名残惜《なごリお》しそうに一万円札を三枚取り出し代金を支払った。このお金はママさんから渡された生活費の一部なのである。節約を心がけている彼女にとっては、痛い出費となった。神様家族といえども、生活費は無限ではない。以前は使い放題であったが、あまりにママさんと美佐《みさ》の浪費《ろうひ》が酷《ひど》いので、最近はお小遣《こづか》い制になっている。それぞれがテンコから毎月決められた額を貰《も。り》っているのだ。 店員が手を離すと、少年は謝りもせずに店から出ようとする。 「ちょ、ちょっと待ちなさいって!ねえ1店員さんに謝ったりしないのー9」 テンコが呼びかけても、彼は振り返ろうとしない。少年の後を妹が「お兄ちゃん、待ってよお1ねえ、待って、凡1」などと言いながら追いかける。 「最近の小学生って、あんな感じなのかしら?メメちゃんは良い子なのになあ……」 「だから助ける必要なんてないって言ったんだよ。テンコもお人よしなんだから」 「だって、お腹とか蹴《ナ》られてたじゃない?さすがに放《まう》っておけないでしょう。まいいや。 学校行くよ。遅刻しちゃうってば」 「そうだな。ところで、進一《しんいち》、鎖骨《さこつ》はどうした?」 それまで横で「フムフム、最近の小学生はイカンですなあ」などと頷《うなず》いていた進一だっ ---------------------[End of Page 19]--------------------- たが、不意に佐間太郎《さまたろう》に話題を振られると「はっ」とした顔になり、「いでえ1鎖骨取れた1」とわざとらしく悲鳴を上げるのだった。 店の外に出ると、自転車置き場で少年がうつむいていた。体中に擦《す》り傷を作っているところを見ると、乱暴をされたのはこの店だけではないらしい。きっと、そこら中の店で同じようなことをして、暴力を受けているのだろう。 隣には幼稚園か小学一年生ほどの妹が常に寄り添って、彼のことを心配そうに見つめていた。 その様子を見たテンコは、少年の元へとゆっくり歩み寄る。 「ぼうや。ダメでしょ、あんなことしたら。他《ほか》のとこでもやってるの?」 彼女に体中のアザや傷を見られ、彼はそれを隠すようにした。 「うるせえなあ。それに俺はボウヤじゃね、凡。ちゃんと名前があるんだ」 「あらま。ずいぶんと大人びてるのね」 「子供扱いすんなよな」 彼の背中に隠れるようにして、少年の妹がテンコのことを見ている。 「どうしたの、お嬢ちゃん」 テンコがそう言った瞬間、少年は驚いて顔をあげた。さっきまで視線すら合わせなかったのに、今は彼女の顔をマジマジと見ているのだ。突然の対応の変化に、テンコは戸惑《とまど》う。 「え?な、なにどうしたの?」 ---------------------[End of Page 20]--------------------- 「どうしたの、お兄ちゃん、どうしたのお?」 妹は面白そうに真似《まね》をする。 「俺《おれ》の名前はキュウタ」 少年はそう言うと、なにかを確かめるようにして、ゆっくりと、言葉を続けた。 「こいつは、妹の、ノゾミ」 どうして急に態度が変わったのだろうか。もしかして反省したのだろうか。テンコは不思議に思いながらも、少しだけ嬉《うれ》しくなる。 「そう、キュウタくんって言うのね。あなたは、ノゾミちゃんね。もうこんなことしちゃダメよ?キュウタくんはお兄さんなんだから、ノゾミちゃんのお手本になるようにしなくちゃね」 ボウズ頭のキュウタは、それこそ穴が開いてしまうほどテンコの顔を見つめる。 「な、なに?なんかついてる?お姉ちゃんの顔に?」 「あんたの名前は?」 「あたし?あたしはテンコだけど……」 「テンコか。わかった、ちょっと考えさせてくれ」 キュウタはそう言って、ノゾミの手を取って走り去ってしまった。 「へPなに、なにを考えるのPちょっと、二人ともH」 テンコは二人の後を追おうとしたが、小さな兄妹《きようだい》はすぐに人込みの中へ消えてしまって、 ---------------------[End of Page 21]--------------------- それっきり見えなくなる。 「なに?なにを考えるのPどういうこと?」’ 鷺としているのはテンコだけではなかった・緯薫贈も、聲,もなにが起こったかわからないという顔をしている。中でも進一は、三人の中で一番戸惑《とまど》っているようだった。 「なあ佐間太郎、ちょっといいか?」 「なんだよ」 「テンコちゃん、変なこと言ってなかったか?」 「変なこと?別に変じゃないだろ」 「そっか。そうか、それならいいんだ。俺の思い違いだな、きっと」 うんうんと一人で納得をしている進一を放《ほう》っておいて、佐間太郎はテンコに声をかける。 「なあテンコ、学校なんだけどさ、ダッシュすれば間に合うかな?」 彼女は腕時計を確認してから、笑顔で返事をした。 「死ぬ気で走ればねっ」 そして三人は、死ぬ気でダッシュするのであった。 始業㈱変が鳴る直前に、佐間太郎とテ。・製して進一は菊本《竜−くもレ層》高校の教室へと鰐込んだ。久美子が席に着いたまま三人に向かって微笑みかけると、テンコはピクッと眉毛を傾《かたむ》けて佐間太郎に言う。 ---------------------[End of Page 22]--------------------- 「ほら、ちゃっちゃと席に着くっ」 「な、なんだよ。言われなくてもわかってるってば」 テンコに足を蹴《け》られながら、佐間太郎《さまたろう》は窓際《まどぎわ》の席へと移動した。教室の一番後ろ、窓際がテンコ、その隣が佐間太郎の席である。新学期になって席替えが行われたが、前の場所から変化はなかった。進一《しんいち》は授業に集中していないという理由で、教卓のまん前の席にさせられている。ちなみに久美子《くみこ》は、一番後ろの廊下側の席だ。 「遅刻しそうになったの、お前のせいだからな」 佐間太郎はカバンから教科書を出し、机の中に入れながらテンコにブツブツと文句をたれる。 「なに言ってんの。イタイケナ小学生を悪の道から救ったのよ?これ天使としてイイコトしたよ。そもそもね、ああいうのは佐間太郎がやらなくちゃいけないんだからね」 「俺《おれ》だって見て見ぬ振りしてたわけじゃないだろ?」 「結果が伴ってないからダメです。まるでダメ」 「ち、兀っ」 学校まで走ってきたせいで、テンコの頬《ほお》には汗が浮かんでいた。彼女はそれをハンカチで拭《ふ》き取ると、フゥと息を吐いて窓の外を眺《なが》める。 太陽の光が窓から射《ぺ層》し込み、テンコの頭に天使の輪を作った。柔らかそうな髪の毛の上で、金属とラバーで作ってある髪飾りがユラユラと揺れている。 ---------------------[End of Page 23]--------------------- 佐間太郎は横目で彼女を盗み見しながら、いつもと同じことを考えていた。 こいつってば、黙っていればそこそこかわいいのに、どうしてこうも口が悪いのだろうか。いや、口だけならマシだ。行動も悪い。すぐ叩《たた》くし、足とか普通に蹴るし、マッハで怒るし。なんて天使なのだろうか。 「うんっ?」 見られていることに気づいたのか、テンコはチラッと彼の方を見る。しかし、それよりも一瞬早く、佐間太郎は彼女から視線を外した。 ……なんだよ、これじゃあ俺があいつのこと好きみたいじゃないか。好きでコッソリ眺めてるみたいじゃないか。もう見るのやめよう。なんかムカつくし。 その時、ポコンと佐間太郎の頭になにかが当たった。それは机の上で小さな音を立てて転がり、床に落ちる前に絶妙なタイミングで止まる。よく見ればそれは、ノートの切れ端《はし》を丸めたものであった。なにかと思って広げてみると、丸っこい文字でこう書いてあった。 『いつもテンコさんのこと見てるんですね。謎《なぞ》の人物Kより』 慌《あわ》てて教室を見渡すと、久美子がわざとらしく机に顔を伏せて寝た振りをしていた。腕の隙間《すきま》からこっちを見ており、おかしそうに目を細めている。 そんなんじゃないってば。今すぐにでも反論したいが、大声を出すわけにはいかない。 そもそも、わりと図星なので恥ずかしい。佐間太郎は彼女と同じようにノートを切って、『そんなことないです。BY神山《かみやま》』と書いて久美子に投げつけた。 ---------------------[End of Page 24]--------------------- 頭にテコッと当たった紙切れを彼女は読むと、またしてもノートの切れ端《はし》に背中を丸めてなにかを書き始める。 新しい紙切れは放物線を描いて、佐間太郎《さまたろう》の机に着地した。広げて見ると、今度はピンク色のペンで文字は書かれていた。 『わたしは、いつも神山《かみやま》くんのこと見てるから知ってます。そんなことあるのです。なぞのくみこより』 うっ。なんなんだこのミニ手紙は。ちょっとドキドキするではないか。本能的にテンコに見られたらマズイと思《ヲ》い、チラッと彼女の方を向くが、相変わらず窓の外を眺《なが》めていた。 久美子《くみこ》はわざとらしく教科書なんかを開いたりして、なんてことないような顔をしている。 こんな手紙を投げつけるなんて、どういうつもりなのだろうか。 佐間太郎はどう答えていいのかわからず、マジックペンを使い太い文字で書き殴った。 『余計なことはいいから、真面目《まじめ》にやることやってください(勉強とか!)BY神山』 彼が腕を振り上げ、紙を投げようとした瞬間、横でテンコが小さく声を上げる。 「あっ」 「えp」 動揺した佐間太郎は手元が狂ってしまい、久美子へのメッセージは教卓の上へ乗っかってしまった。 「やばっ、取ってこなくちゃ」 ---------------------[End of Page 25]--------------------- しかし彼が席を立つよりも早く、男性教師が満面の笑みを浮かべて教室に入ってくる。 「いやあ〜、みんなおはよう!今日はビッグニュースがあるぞ1昨日の夜だ!.先生になあ、なんと赤ちゃんが生まれました1って言っても、先生が生んだわけじゃないそ、先生の奥さんが産んだんだからなあ!わっはっはっは」 いつもは厳しい顔をした教師が、今日は珍しく顔をほころばせている。それを見て生徒たちは「珍しいこともあるものだ」とリラックスした様子になった。 「それがなあ、これがもう、先生にそっくりでなああ。スッゲエカワイイんだぞ?名前か?名前はまだ決めてないんだけどなあ、どんな名前がいいかなあ、お前らから募集しちゃおうかなあ。でへヘへ」 よほど嬉《うれ》しいのか、教師はそう言ってポリポリと頭をかいた。和《なご》やかな雰囲気の中で、佐間太郎だけが背中に嫌な汗をかいている。もしや、もしかして。 「お?なんだ?誰か先生の机にゴミ置いたか?まったく、しょうがないなああ。でも今日は記念日だからな、許してやるか。ん?なんか書いてあるな」 彼はそう言って、丸めてある紙をゆっくりと広げた。口の中でモゴモゴとそれを読むと、フゥと息を吐いてから大きな声で言う。 「よしみんな!抜き打ちテストだー−・」 えええええ〜1さっきまでの態度と裏腹な宣言に、生徒たちは不満の声を漏《ごU》らす。 「うるさいっ!神山が勉強したいって言ってんだから、リクエストに応えただけだ!」 ---------------------[End of Page 26]--------------------- 教室中の視線が、佐間太郎《さまたろう》に注いだ。、ああ、なんてこったい。 久美子《くみこ》はクスクスと笑いを堪《こら》えるのに必死なようだ。まったく、誰《だれ》のせいだと思っているんだか(いや、悪いのは佐間太郎本人であるが)。 『おいテンコ、お前が変な声出すから手元が狂ったじゃねえか』 彼は心の声を使ってテンコに文句を言った。神様の息子である神山《かみやま》佐間太郎、そして天使であるテンコにはテレパシーのような能力がある。これは神山家の家族が持つ特別な力だ。どんなに離れていても、自分の声とイメージを送ることができる。テレビ電話のようなものだと思っていただければわかりやすいだろう。居候《いそうろう》の久美子も使えるのだが、どうして彼女もまた使えるのかは謎《なぞ》である。世の中には科学では説明できないことがたくさんあるのだ、と思っていただければありがたい。 テレパシーが使えるのだったら、わざわざノートの切れ端《はし》を手紙にしなくてもいいと思うだろうが、それはそれ、これはこれ、である。電話があるからと言って、直接会う必要がなくならないのと同じだ。同じか?うん、同じだ。 というわけで、彼はクラスメイトの冷たい視線から逃れるために顔を下に向けたまま、彼女に文句を送るのであった。 『そもそもお前はいっつも窓の外ばっか見て、あれか、夢見る少女か。このう』 『ねえ佐間太郎、あそこ、見てよ』 『なんだよ。話を逸《そ》らそうったってそうはいかないからな』 ---------------------[End of Page 27]--------------------- 『そうじゃなくて。ほら、あそこ。さっきの小学生。キュウタくん、だっけ?』 テンコに言われて窓の外を見ると、キュウタと妹のノゾミが校門のところに立っていた。 キュウタはなにをするでもなく、ジッと校舎の方を眺《なが》めている。隣でノゾミが退屈そうにその場でグルグルと回っている。なにをやってんだか。 「ねえねえ佐間太郎、行って来た方がいいかな?』 『放《ほう》っておけばいいんじゃねえのか?』 『そうもいかないでしょ、小学校サボってここにいるってことでしょ?』 『まあ、そうだけどさ。でも、なんかこの状況、前にもなかった?デジャブ?』 「なに言ってんの?こんなの初めてじゃない。あたし、ちょっと行ってくるから1』 「先生1あの、トイレっ!」 テンコは勢いよく立ち上がると、そう言って教室から出て行ってしまった。放っておくわけにもいかず、佐間太郎も立ち上がる。 「どうした神山、お前もトイレか?あ?」 「あ、えーと。はい。い、行ってきます」 彼は教師がなにか叫《さ噂,》んでいるのも聞かず、教室を飛び出す。後で叱《しか》られるに違いない。 「あんな子供放っておけばいいのに……」 校庭を横断し、校門にたどり着くとテンコがキュウタになにやら話をしているところだった。 ---------------------[End of Page 28]--------------------- 「どうしたの?学校は行かなくていいの?」 彼女がなにを言っても、キュウタは黙ってうつむいている。それも、小学生らしからぬ険しい表情で。 「おい、どうしたんだよ、コイッ」 「わかんない。ずっとこんな調子なんだけど」 キュウタは何度か口を開きかけたが、その度に躊躇《ちゆうちよ》して言葉を濁《にご》す。だが、しばらくしてからようやく決心がついたようで、少年は真《ま》っ直《す》ぐにテンコの瞳《ひとみ》を見つめた。 「テンコ。今から大事なことを言うから、ちゃんと聞けよ」 「な、なに?キュウタくん」 あまりに真面目《まじめ》な調子に、思わずテンコは助けを求めるような視線で佐間太郎《さまたろう》を見た。 しかし、彼にだってキュウタがなにを言おうとしているのかまったく見当がつかない。 二人はただ、少年の言葉を待つしかない。 ほんの少しの沈黙の後、キュウタはそれが冗談だとは思えない、完全に本気の顔をして言った。 「結婚してやるぞテンコ。ありがたく思え。俺《おれ》が嫁に貰《もら》ってやる」 パフンッ。 テンコの頭から、情けない音と共に小さな湯気が上がった。 ---------------------[End of Page 29]--------------------- 第二章テンコ壊れる 授業も全《すべ》て終了し、後は下校するだけの放課後。テンコは何気なく窓の外に視線を向ける。いや、何気なく、ではない。ものすごお〜く憂欝《ゆううつ》な感じで、ああ、なんかこう、今朝のことが全部幻だったらいいのになあ〜、という視線を向ける。 だが、幻ではなかった。窓から見える校門の陰には、朝からずっとキュウタ少年が体育座りで待機しているのである。北風が冷たいのか、頬《ほお》を赤くしているが、辛《つら》そうな感じはしない。ただ、押し黙って、なにかの修行のようにさえ見える。 「ちょっと佐間太郎《さまたろう》、あの子どうにかしてよ」 心底まいったふうに告げるが、彼は面白そうに笑っている。どうやら、この事態を楽しんでいるようだった。この事態とはもちろん、テンコが小学生に求婚されてしまったという大事件である。 「どうにかって言ってもなあ。どうせ子供のイタズラだろ?そのうち飽《あ》きるって」 「もう、他人事《ひとごと》だと思って……」 確かにキュウタが本気で求婚しているとは思えない。イタズラか、そうでなければ気ま ---------------------[End of Page 30]--------------------- ぐれかなにかだろう。そもそも彼は、結婚というものの意味をきちんと理解しているのだろうか? 「あの、どうしたんですか?浮かない顔して」 帰り支度《じたく》を終えた久美子《くみこ》が、二人の顔を交互に覗《のぞ》き込みながら言った。 「それがね久美子さん。テンコってば……」 「ちょっとやめてよ佐間太郎。あんまり人に言うものじゃないでしょ」 佐間太郎がおかしそうに話すのを、テンコはたしなめる。もしキュウタの気持ちが本物だった場合、笑い話にするのはかわいそうだと思ったのだろう。 「わ、わかったよ。久美子さん、ごめん。後で話すから」 「後ですか?あの、途中まででやめられると気になるんですけど……」 彼女はくすぐったそうに頬をかきながら言った。 「あの、テンコさん。やっぱりほら、途中まで聞いておいて、後でっていうのは、すごくね、気になりますから、答えを教えてくださいとは言いません。でも、せめてヒントでもお願いしますよ、ヒントっ」 手のひらをパムッと合わせ、テンコを拝むようにして久美子はお願いをした。そこまで言われてはテンコだって申し訳がない気がしてくる。もし自分が同じような目にあったら、きっと佐間太郎をプン殴ってでも最後まで話を聞き出そうとするだろう。 「う、う〜ん。あの、ね、久美子さん……」 ---------------------[End of Page 31]--------------------- しかし、キュウタのことを考えると、事の真相がハッキリするまで他人には言わない方がいい位もしこれが原因で彼がトラウマでも持って、今後一切女の人に結婚を申し込めなくなっては一大事である。恋のキューピッドであるはずの天使が、人間にトラウマを植え付けてはならない。 「え〜と、その、あの、うんと……」 テンコは仕方なく、思いつきで久美子《くみこ》に答えた。 「う、うんとね。出るのよ。そう、出るの1佐間太郎《さまたろう》が出るの!」 「出る?出るってなににですか?」 「ぱ……、ばりこれ?」 「ばりこれ?パリコレPパリコレってパリコレクションー7一ファッションショーのパリコレクションですかP”」 しまった、思いつきにも程があった。 「なんで神山《かみやま》くんがファッションショーなんかに出るんですか?それもパリの。すごいことだとは思いますけど、ちょっと、その、意味がわからないというか。本当なんですか?」 「えP”本当よ!そ、そう、なのよ。ね、凡、佐間太郎っ?」 ええいっ、言ってしまったものは仕方がない。テンコはこのまま強引に嘘《うそ》をつき通すごとにした。佐間太郎にも協力してもらおう。そう思って、彼に微笑《ほほえ》みかける。 「…………」 ---------------------[End of Page 32]--------------------- が、佐間太郎はモーレツにドンヨリとした表情をしていた。いや、それ、バレるだろ、無理だろ、嘘つけよこのやろう、という顔だ。 『テンコ、そりゃ無理だ。あきらめろ』 その上、心の声を使ってテンコにメッセージを送ってくる。かなりゲンナリとした声だ。 彼女の嘘のデタラメ加減に呆《あき》れているのだ。 『なに言ってんのよ!大丈夫、嘘もつき通せば真実になるのよ1』 『ならないから。さすがにパリコレは無理だから』 「あの、テンコさん。それ本当ですか?」 久美子が期待と不安が混ざった声で、もう一度問いかける。やばい、テンコはこのまま嘘をつき通しても佐間太郎の協力が得られないとわかると、作戦を変更することにした。 「あ、間違った、パリコレじゃない。あはは、久美子さん、パリコレじゃないって、佐間太郎がパリコレ出るわけないじゃない1おほほほ1」 「そうですよね?ビックリしたあ〜。だったら、本当は、なにに出るんですか?」 目をくりくりっと動かしながら、微妙に首を傾《かし》げて質問する久美子。テンコの頭の中は、なにか自然な言い訳はないかと、自然な嘘はないかとギュオンギュオンと回転する。 「えーと、出るのよ。その、出るんだってば」 「なにに出るんですか?テンコさんっ」 焦るテンコを、佐間太郎が目を細めて見ている。おいおい、また変なこと言い出すなよ、 ---------------------[End of Page 33]--------------------- という視線だ。なにかいい嘘《うそ》はないか。なにか、自然な、さりげな〜いやつ。 「ウルトラクイズ」 「ウルトラクイズPテレビー7“本当ですか19」 久美子《くみこ》が聞き返そうとした途端、テンコは机の上に置いてあったカバンを掴《つか》むと、突然大声で叫《さけ》んだ。 「あっらやだ、もうこんな時間、佐間太郎《さまたろう》、予選1予選がはじまるからすぐスタジアムへ1」 そして、戸惑《とまど》う久美子を放置し、もっと戸惑う佐間太郎の腕をガッと掴み、そのまま教室の外へと恐るべき早足で逃げ出すのだった。 「おほほほほ!佐間太郎、じゃあ練習問題!使う時に使わなくて、使わない時に使うものってなあ〜にっ?にっ?にっ?にっ?にい〜つ?」 教室に取り残される久美子の耳に、テンコの声がフェードアウト気味に響く。そして久美子は思った。さっきテンコが出していた練習問題。あれはクイズじゃなくて、なぞなぞなのでは……。 「で、どうすんだよ。待ってるぞ、お前出てくんの」 佐間太郎の言う通り、キュウタはテンコが出てくるのをじっと校門で待っていた。 菊本《きくもと》高校の女子生徒が「あ、子供だ。かわいー」などと話しかけても「うるせえ子供扱 ---------------------[End of Page 34]--------------------- いすんな!」と怒鳴《どな》り散らし、ひたすら彼女のことだけを待っている。二人は少年に見つからないようにと、服が汚《よご》れるのも気にせずに葡旬《ほふく》前進で校門へ近づき、少し離れた場所から様子を見ているのだ。 「どうするって。やっぱりちゃんと言った方がいいのかなあ」 「言うって、なんて?」 「小学生とは結婚できないって……。まあ、気持ちは嬉《うれ》しいけどねっ。えへへ」 テンコはそう言って、ほんのりと頬《ほお》を赤くした。 「えへへじゃねえよ。小学生以前に、お前は天使だから人間とは結婚できないだろう」 「あ、そうか。天使は人間と結婚できな……あれ?そうなの?」 「そうなんじゃないの?知らないけど」 「あたしも詳しく知らないや。それならあたしは、誰《だれ》と結婚できるんだろう。今度パパさんに聞いておこうっと……」 などとノンキな会話をしている最中も、キュウタは校門の近くに座っている。小学生だからいいものを、これが四十二歳会社員だったらストーカーだ。ああ、同じ純愛でも年齢によってストーカーにされてしまうとは悲劇である。頑張れ四十二歳会社員。 「あれ?テンコちゃんに佐間太郎。なにしてんだ、お前ら」 「どうかしたの?校庭に寝たりして」 四十二歳会社員の応援をしているうちに、いつの間にか背後には進一《しんいち》と愛《あい》が立っていた。 ---------------------[End of Page 35]--------------------- 二人して地面の上に横たわる姿を見て、熱でもあるんかいと声をかけたらしい。 「しっ1進一《しんいち》、ちょっと黙れ1黙れ1」 「同じく愛《あい》ちゃん、静かにしてっ1」 佐間太郎《さまたろう》とテンコに言われた二人は不思議そうに顔を見合わせる。と、なにか思いついたようで、進一が大きく目を見開いた。 「もしかしてP”こんな時間から二人でP校庭でP”エロいことをー7」 あまりに直球な発言に、佐間太郎、テンコ、愛の三人同時から蹴りが入った。すごい、人間て三人から同時に蹴られると関節が変な方向に曲がるんですね。ぐにゃり。 「うぐうあ、鎖骨《さこつ》と肋骨《ろつこつ》と軟骨《なんこつ》があ……」 彼はそう眩《つぶや》くと、気を失って地面に崩れ落ちた。愛は気が済まないのか、倒れている進一の頭をゲシゲシと靴の底で踏みにじる。 「あーもー1進一くんてば最も低い!つまり最低!すぐそういうこと言うし1もう知らないんだからね1」 散々頭をねじると気が済んだのか、三つ編みをプランプランと揺らしながら彼女は去って行った。進一は顔を地面に突っ伏して倒れているが、そこからうっすらと血のようなものが流れている気がする。最近の愛は、手加減というものを知らないのだ。これは愛情が深くなったという証拠なのだろうか?それとも、単にストレス発散なのか。 ともかく、そんな騒動(校庭に血が滲《にじ》むほどキック連打)を起こしたものだから、当然 ---------------------[End of Page 36]--------------------- テンコの存在はキュウタ少年の知るところとなった。彼はトテトテと走ってくると、彼女に向かって手を差し出す。 「よし、それじゃ帰るぞ、テンコ」 さも当然のようにして、彼女が手を握り返すのを待っている。ノゾミも彼の後ろから、テンコのことを覗《のぞ》き込んでいた。この少年、マセガキというのだろうか、少しも照れている様子はない。テンコはどう言えばいいのか困ってしまう。ハッキリと言うのが彼のためなのだろうが、もし本気だったらと思うとなかなか口に出せない。 「あのね、キュウタくん。あなたは小学生でしょう?だからまだ結婚なんてできないのよ?」 「テンコ、俺《おれ》を子供だと思うな。愛があれば年の差なんて関係ないさ」 右手をグッと握り締め、愛について熱く語ってしまう小学生。 いや、愛なんてないから。そうテンコは言いたかったが、さすがにそこまでの直球発言は彼を傷つけてしまうだろう。どうしたものかと佐間太郎の方に視線をうつした。 「はあ。まったく見てらんねえなあ。いいか、小学生よ」 佐間太郎は彼女の視線を受け、ずずいっと一歩前に出た。さすが神様の息子である、男の子である、頼りになるではないか.、これでこの件は解決だ。テンコはホッと胸を撫《な》で下ろした。 「なんだよ、オッサンかよ」 ---------------------[End of Page 37]--------------------- 「オッサンじゃないって。いいか、お前に言いたいことがある。よく聞け」 「聞いてやる。言ってみろ」 コホンと咳《せき》をひとつしてから、佐間太郎《さまたろう》はハッキリと言った。 「テンコをよろしく頼む!」 「おうっ、よろしく頼まれた!」 「ズコー!そしてギャフーン1最後にスッテーンH」 テンコは思わず昭和初期のコメディ番組的な驚き方をして、その場にハデに転んだ。 「ちょ、ちょっと待ってよ1佐間太郎、あんた、なに言ってんのP」 予想外の彼の言葉に、両手をバタバタと振って彼女は抗議する。しかし、佐間太郎とキュウタの二人は「え?なにか問題でも?」というキョトン顔である。憎らしいほどのキョトン顔である。というか、憎い。キョトンが憎い。 「いやいやいや、よかったじゃないかテンコ。こんなに愛されるなんて!この機会を逃したら、もう愛してくれる人は現れないかもしれないそ?大事にしてもらえ」 「そういう問題じゃないでしょP”相手は小学生よP」 「大丈夫だテンコ、愛があれば年の差なんて!相手が小学生でも、お前なら上手《ヤつま》くやっていけるさ。きつと話合うそ。ガリガリくんとかハートチップル好きだろ、お前?」 「好きだけどさ1えPなにP佐間太郎19”本気で言ってるのP」 テンコが目を充血させて抗議しているのにもかかわらず、彼はにやにやと笑っていた。 ---------------------[End of Page 38]--------------------- もちろん本気で言っているわけではない。この状況を楽しんでいるのである。 なにしろ、テンコが小学生に求愛されているのだ。これは愉快な状況ではないか。 テンコは、キュウタ少年が本気だとしたら困ってしまうと真剣に悩んでいる。だが、佐間太郎は「どうせすぐ飽《あ》きるだろ」と楽観的に考えているのだ。だから、無責任な発言をしていられるのである。 「いいかテンコよ、お前のことを女として見てくれる男が現れたんだ。よかったじゃないか、素敵なキャンパスライフを送ってくれたまえ」 「キャンパスってどこー7”って、子供相手に恋愛なんてH」 「大丈夫だ、テンコ」 佐間太郎は不意に真面目《まじめ》な顔になって、彼女の肩に手を置いた。 「お前も十分子供だし、お似合いだろ?さ、付き合ってやれ」 「…………」 テンコの頭から、ピスッと小さく湯気が出る。自分のことを子供呼ばわりされたからではない。それまでの勢いを突然なくし、頼りない口調でテンコは言った。 「あのさ、佐間太郎は本当にそれでいいの?」 「え?なにがだよ」 「キュウタくん、本気かもしれないよ?それでも、あたしとキュウタくんが付き合ったりしてもいい?それでも面白い?」 ---------------------[End of Page 39]--------------------- テンコの目には、うっすらと涙が滲《にじ》んでいた。どうして泣きそうになっているのか、佐間太郎《さまたろう》には理解できない。 「え?な、なんだよ。泣くことないじゃないかよ。そんなに小学生と付き合うのは嫌か?」 「そうじゃなくて。佐間太郎は、あたしに彼氏ができてもいいの?」 「そ、そんなの決まってるじゃないか……」 あはは、いいさ。よかったじゃないか、めでたいめでたい。そう彼は答えようとした。 だが、テンコの顔はいつになく真剣だった。潤《うる》んだ瞳《ひとみ》が、心細そうに佐間太郎のことを見つめている。し、しまった。こ─れは、冗談が通じないタイプの表情である。 「き、決まってる……じゃ、ないか…………あは、あはは」 佐間太郎の背中に汗が伝った。ちゃんと答えないと、ヤバそうだ。よし、ちゃんと答えてみよう。もしテンコに彼氏ができたら。本気で考えたとしたら……。 「えと、あの、その。テンコ……」 「う、うん……」 見つめ合う二人。佐間太郎は、照れ隠しなど一切なしにして、自分の本心を伝えようと思った。 「俺《おれ》は……お前に彼氏ができたら……」 「うん……」 不安そうに彼の目を見つめるテンコ。彼は、なんでイキナリこんなシリアスな展開にな ---------------------[End of Page 40]--------------------- ったのだろうと思いつつ、カラカラに渇いたのどをゴクッと鳴らす。 「お前に彼氏ができたら……」 その時である。 佐間太郎の視線はテンコの顔に集中していたが、その先、校庭の地面に倒れている進一《しんいち》に偶然ピントがあった。彼は地面に倒れつつ、ニヤニヤとこっちを見ていた。三人同時の蹴りを喰らい、地面に崩れ落ちていた彼は、いつの間にか意識を取り戻し佐間太郎とテンコのシリアスな会話を聞いて笑っていたのであった。 「俺は……俺は…………」 進一は、佐間太郎が自分に気がついたことを知り、さらにニヤニヤと笑いはじめた。言っちゃいな、言っちゃいな、今まで黙っていた気持ちを伝えちゃいな、という顔をしている。すごくムカつく笑顔である。もし今、ここで恋愛ドラマのような甘いセリフでも言おうものなら、今後進一にバカにされ続けることになるであろう。例えば、こんなふうに。 「いやあ〜、あの時の佐間太郎ってばカッコよかったよなあ。真面目《まじめ》な顔してさ、テンコちゃんのこと見つめちゃってさあ〜。『俺は、お前に彼氏ができたら……そんなの!そんなの嫌だだあああうう!いやどうはあうううう1』ってな!うひゃひゃひゃ”二そんな感じで言うだろう。絶対。しかもクラスメイト全員の前で。小芝居だ、進一小劇場だ。それは恥ずかしい、それだけは避けなくてはならない。 「ねえ、佐間太郎ってばあ……」 ---------------------[End of Page 41]--------------------- テンコが目の前で小さく眩《つぶや》く。とても不安そうな声で。 「にひひひ」 進一《しんいち》が視界の隅で小さく笑う。とても愉快そうな声で。 どうする、どう答えればいい。そもそももし本当にテンコに彼氏ができたらどう思うのだ。二人の視線に晒《《ごり》されている今、頭はちゃんと働いてもくれない。ああ、なんて答えればいいのだ。どうすればいいのだ。 「テンコ、俺《おれ》は、お前に、彼氏ができたら…………」 佐間太郎《さまたろう》は覚悟を決めて、ゆっくりと、彼女に言った。 「それはそれで……、オッケ」 あー。 進一のからかいが怖くて、彼はそう答えてしまった。テンコの瞳孔《レマつこロつ》がキュッと開き、唇がフルフルと震えた。そりゃそうだ、彼女にしてみればショックだったに違いない。 彼氏ができてもいいということは、女として見られていないのだろうか。それは、自分に魅力がないということなのか。それとも、それとも、それとも。 「いや、あの、テンコ?えーと、その、今のは、だな、その……」 「………………」 「だから、えーと、ほら、もしもの1もしも、の話だし、その、本気にすんなつうか、なんつうか、な?」 ---------------------[End of Page 42]--------------------- 「………:………・……………」 「いや、その、ほれ、誰《だれ》が聞いてるかわかんないしさ、な?なな?」 「…::…………・…………:……・::………」 なにを言われても青い顔をして黙っていたテンコであったが、ゆっくりと血の気が戻ってきたようだ。彼女は静かに深呼吸をすると、頭の中を整理しないで、思考をそのまま一気に吐き出した。 「なにそれもう信じられないあんた最低っていうか別に好きとかじゃなくてそういうんじゃなくてもうなにそれバカじゃないのいいわよいいわよあたし付き合うわよ小学生の彼氏つくるわよあんたなんかと付き合ってあげないわよそもそもさまたろーなんかと付き合う気なんてこれっぽっちもないですけどバカバカホントバカいいもんべつにいいってばキイーいきましょうキュウタくんーー」 「えと、テンコ?」 「うるさいっー−”」 テンコは手に持っていたカバンを佐間太郎の顔にフルスイングで叩《たた》きつけると、呆然《ぽうぜん》としていたキュウタ少年の手を握って校庭から出て行ってしまった。 「ああ、待って1お兄ちゃん1待って!」 二人の後を、キュウタの妹であるノゾミが走って追いかけている。 佐間太郎は赤くなった頬《ほお》を手で押さえながら、三人の後ろ姿をボンヤリと見ていた。 ---------------------[End of Page 43]--------------------- 「まったく、お前は素直じゃねえなあ。そんなんだったら、いつまで経《た》ってもテンコちゃんのこと幸せにできねえぞ?」 地面に寝そべった進一《しんいち》の声が背後から上がったが、彼の耳には届かない。今、佐間太郎《さまたろう》の頭は後悔と混乱でいっぱいになっている。たとえ、誰《だれ》がなにを言ったとしても、彼の頭にはまったく入ってこないのだ。 「ちなみに寝そべってたから、ずっとテンコちゃんのパンツが見えてた」 「コラッ!見んな!そんなもん見んなーー”」 そういう言葉だけは、耳に届くのであった。 「テンコ、これからデートだぞ」 キュウタ少年はそう言ってテンコの手を強く引く。 勢いに任せてこんなことになってしまったものの、自分は小学生と付き合う気などない。 年齢の差とかいう以前に、恋愛感情がないのだ。しまった。しまったよ。 テンコはどうしたものかと悩みながらも、少年に言われるままに世田谷《せたがや》の道を進む。 「あの、キュウタくん。どうしてあたしなのかな?ほら、小学校のクラスメイトとかに好きな人いないの?応援しちゃうよ、テンコお姉ちゃん。うん?」 彼はチラッと彼女の方を見ると、抑揚《よくよたつ》のない声で言う。 「ガキには興味ないから」 ---------------------[End of Page 44]--------------------- 大人である。小学生なのだが、大人びている。いや、こういうのを大人びていると言うのだろうか。 「そうだテンコ、遊園地行くか。デートと言えば遊園地なんだろ?」 「なに、キュウタくん、遊園地好きなんだ?」 「バカ、俺《おれ》が好きなんじゃないよ。デートと言えば遊園地か映画館だろ?それか海の見えるバー」 彼はそう言って、得意げに鼻をフフンと鳴らした。いや、そんな得意げにされても、とテンコは思うが、背伸びをして大人ぶっているキュウタがかわいくもある。 「そっか。大人なんだね、キュウタくんは」 「そうだよ。俺は大人なんだよ。だから寂しくなんてないのさ」 「寂しい?」 聞き返すと、彼はしまった、という顔をした。 「なに、キュウタくん寂しいの?」 「いや、その……」 なにかあるのだろうか?テンコが聞こうとした時、キュウタの背中にノゾミがジャンプして飛び乗った。 「お兄ちゃん1かまってよう1」 「おわ、ノゾミ、危ないだろっ1」 ---------------------[End of Page 45]--------------------- 「もう、テンコばっかり!ノゾミにもかまって!目隠しっ!」 「どわああ1見えない1前が!見えないっ!」 妹のノゾミに両手で目隠しをされ、道路をフラフラと歩く少年を見て、テンコは微笑《ほほえ》ましい気持ちになった。兄妹《きようだい》でこんなに仲が良さそうなのに、なにを寂しがっているのだろうか。 「そうだ、メシだ、ザギンでグーフーを食べよう」 キュウタは突然提案すると、駅前のファーストフードショップへと入っていった。 レジで三人分のフードを注文し、テーブルに座って食べる。 ノゾミが口からレタスやらハンバーグやらをこぼしてるのを、テンコはティッシュで拭《ふ》いてやる。 「あれ?どうしたの、食べないの?」 ハンバーガーを前に真面目《まじめ》な顔をしているキュウタに聞くと、彼は=瞬だけ後ろを向くんだ」と言った。言われるままに彼女は後ろを向いたが、壁の鏡に彼の姿はしっかりと映っていた。包み紙を取ると、ハンバーガーからピクルスを抜き取っている。 それなら最初からピクルス抜きを注文すればいいと思うのだが、これも彼なりのプライドなのだろうか。 「よし、テンコこっち向いていいそ」 「あ、うん。いっただきます!」 ---------------------[End of Page 46]--------------------- 「いただきます1」 Lサイズのバーガーだというのに、キュウタはあっという問にそれを食べつくした。一緒に頼んだドリンクも、いまやストローからはズルズルと氷をすする音しかしない。 「あの、キュウタくん。お腹減ってるんなら、おかわりする?」 「いや、いい。大丈夫。つうか、この辺りの店も入れるとこ少なくなってな」 「なんで?」 「いつもお金払ってないからだよね?怒られちゃうんだよね?」 キュウタの言葉を、ノゾミが続けた。彼は「余計なこと言うな」と妹を嗜《たしな》める。 「なに?じゃあ普段はちゃんと食べてないの?」 テーブルに乗り出すようにして問いかけると、彼に似合わず照れたようにして視線を逸《そ》らす。 「あんま見んなよ。照れるから」 「なにそれ?キュウタくんでも照れるのね。ふ:ん」 「それで、結婚のことはどうなんだ?」 キュウタは突然本題を切り出してきた。この一度のデートで納得しないことはわかっていたが、まさかここまでこだわっているとは。 「でもほら、きみは子供でしょう?だから無理なのですよ。それに、ご両親にも話さないといけないでしょう?」 ---------------------[End of Page 47]--------------------- 「大丈夫だ、親はいないからさ」 「え?」 「とにかく、大人も子供も関係ねえっての。大事なのは、ここよ、ここっ」 そう言って胸を叩《たた》く彼だが、その部分にはアニメのキャラクターがプリントしてあった。 それにしても、親がいないと彼は言ったが、どういうことだろう。これについては、あんまり触れない方がいいのだろうか……。うむむ。 「いやね、でも実際問題さ、難しいってば。うん。あたし、好きな人いるし」 「いるのかっP」 「いるね。いるんだよこれが。まったく。それが目下《もつか》のテンコさんの悩みでもあるわけなんだけどさ」 「なんで悩んでるんだよ。好きなら好きって言えばいいじゃん」 「そりゃそうだけどさ。立場ってものがあるのよねえ」 いつの間にか、お昼の相談番組のようなテンションになってくる二人である。 「テンコ、その立場っていうのは乗り越えられないものなのか?」 「たぶんね。でも、うーん。やっぱり無理かなあ。さすがに……」 天使と神様。これはもう、無理なんじゃないかなあ……。もし。もしだよ、もしもの話、お互いが好き同士でも、この二人の関係は制度として、システムとしてダメなんだと思う。 わかんないけど。 ---------------------[End of Page 48]--------------------- 「それってさ、大人と子供、みたいに無理なのか?」 「え?」 しまった、とテンコは思った。いつの間にか話題がスライドされている。 「大人と子供の恋愛より、テンコの恋愛は難しいのか?」 「いや、それは……。まあ、どっちかって言ったら、大人と子供の恋愛の方が簡単かなあ」 「よし、わかったテンコ。俺《おれ》とお前の結婚には問題はない」 そう言ってキュウタはトレイを片付けもせずに店から出て行こうとする。その後ろを、口の周りにソースをベトベトにつけたノゾミが走っていく。 「あるよ!あるってば1無理なんだからね、絶対無理だからね1」 テンコが三人分のトレイを重ねてダストボックスまで持っていこうとすると、店員さんがやってきてニコッと笑った。 「こちらで片付けておきますから」 「あ、はい。ありがとうございます」 「弟さんですか?元気いいですね?」 「は、はあ」 ほらねキュウタ。周りの人には、そういうふうにしか見えないんだよ。 「二人前を食べてしまわれるんですものね」 そうなのだ。彼はテンコの皿からポテトを何度もツマミ食いしていたのである。 ---------------------[End of Page 49]--------------------- 「それじや、どもです。キュウタくん、ノゾミちゃん、待ちなさいよ!」 彼女がそう言って二人の後を追うと、店員は不思議そうに首を傾《かし》けた。 「ただいまー」 佐間太郎《さまたろう》が家に帰ってくると、相変わらずママさんはカタツムリの格好をしていた。二階から一階への移動はできたようで、居間の中心を占領している。 ─「やーん、佐間太郎ちゃんお帰りなさい。入る?ぬくいわよ?」 「いや、いい」 「なんで?遠慮しなくていいのよ?ほら、中はママさん裸だから、つまり、なにも着てないのよ1触りたいでしょ1でもダメ!いいけどダメ1ママさんからはOKは出せないのがルール1ダメって言ってるのに佐間太郎ちゃんが無理やり触ったりするところにスリルがあると思いませんか1そう思いませんか1」 感情を込めて問いかけるママさんであったが、既に目の前から佐間太郎の姿は消えていた。代わりに、トントントン、と階段を上がる足音が遠くから聞こえてくる。 「……んもう、佐間太郎ちゃんてば恥ずかしがりやさんなんだから。本当は触りたいくせに。コタツのスイッチ1オン1オフ!オン1オフ!オン1オフ!」 ママさんは素早くスイッチをカチャカチャやりはじめたものの、すぐに飽《あ》きたらしく、一分ぐらいするとグウグウと寝息が聞こえはじめた。寝たのだ。 ---------------------[End of Page 50]--------------------- そこにお菓子を持ったメメがトテトテとやってきた。グウグウと寝ているママさんに、なんとなく彼女はお菓子をひとつあげてみる。 「食べるかな……」 「グウグウ……ばくっ(無意識)」 「あ。食べた……。はい(おかわり)」 「ぱくぱくつ。グウグウ」 まるでイルカに餌《えさ》をあげている飼育員である。平和な神山《かみやま》家。愛《いと》しいね。 そんな平和さとは裏腹に、自室のベッドにて佐間太郎は悩んでいた。 「あーっ。なんであんなこと言っちまったんだ……。そりゃ怒るよなあ。でも別に彼氏ができたとしても、本当にあいつが好きだったらしょうがないし、俺《おれ》がどうこう言う問題じゃないし。はあ、どうすればいいだろう、こういう時は……」 「どうしたんですか、元気ないですねっ」 一人だと思っていた部屋の中で、久美子《くみこ》の声がした。しまった、と佐間太郎は思うがもう遅い。彼女は部屋の中心を区切っているベニヤ板に開いた穴から顔を出すと、ニコッと笑った。 ここで説明しよう。佐間太郎の部屋である六畳の洋室は、色々な事情によりベニヤ板で三畳ずつに仕切られている。居候《いそうろう》の久美子は、片方の三畳スペースに布団《ふとん》を敷いて生活しているのだ。 ---------------------[End of Page 51]--------------------- 「神山《かみやま》くんてば、すぐに悩むんだから。だったら、わたしに相談してくださいよ」 彼女は四つん這《ば》いの姿勢でベニヤの穴から出てくると、佐間太郎《さまたろう》の三畳スペースへとやってきた。 「悩んでるわけじゃないよ。久美子《くみこ》さんが心配するようなことじゃないし」 体育座り(地方によっては三角座りとも呼びます)をしながら、自分の足の指をツンツンといじる久美子。長い黒髪が、表情をごまかすようにして彼女の顔を隠した。 「神山くんは、わたしに相談してくれないですよね。ちょっと悲しいな」 冗談で言っているのか本気なのか、髪の毛で隠れている顔から読み取ることはできない。 佐間太郎は変にドギマギしながら、視線を天井に向けた。 「でも大丈夫。ちゃんとわかってます。準備、できてますから」 「準備?」 そう言うと、久美子は音もなく立ち上がり、彼の方へとゆっくり近寄る。 「な、なに?久美子さん、どういうこと?」 「大丈央です。決心がつかないんでしょう?わたしが、覚悟を決めさせてあげます」 きっと本気なのだろう。彼女の声は重みを持っていた。 これは、これは、きっと、その、テンコとの間柄をハッキリとすることができない佐間太郎に対して、久美子が「決心をつけてあげる」ということだろうか。 「それって、どういうこと?なにするの?」 ---------------------[End of Page 52]--------------------- 久美子は髪の毛をかきあげて、潤《うる》んだ瞳《ひとみ》で彼をジッと見つめる。 「今テンコさんいないでしょう?だから、わたしがしてあげるんです」 「どどどどどど、それって、どういうことー7」 「わたしじゃテンコさんの代わりにはなりませんか?」 彼女はベッドの上までやってきて、佐間太郎のすぐ隣に座る。 「代わりっていうか、その、え、なに17日なんでp」 「わたしの準備は、できてますから。あとは神山くんが心の準備、できれば」 「いやだから準備って、なんの?なんのー9」 わかってるくせに。久美子は唇を舌で舐《な》めて、クスッと笑う。 「する前に、ちゃんとつけてあげますからね。だから、目を閉じてください」 わからない。健全なる男子である佐間太郎には、彼女の言葉の意味はわからなかった。 ただ、なんかこー、かなり素敵な感じがする。もう身を任せるしかない。彼は言われるままに目を閉じた。 「わたし、こういうのつけるの初めてだから、ちゃんとつけられるかどうか。もしズレたら言ってくださいね」 細い指先が動き、久美子は佐間太郎に例のアレを装着させる。 佐間太郎は多少の窮屈《きゆうくつ》さを感じながらも、彼女に委《ゆだ》ねた。 「それじゃあ準備いいですね?」 ---------------------[End of Page 53]--------------------- 「う、うん」 「それでは、第一問」 「はい。……って、え?」 「チャーラン♪」 佐間太郎《さまたろう》がゆっくりと目を開けると、久美子《くみこ》は「ウルトラクイズ練習問題」と書かれたノ:トを持ってベッドの上に正座をしていた。さらに、窮屈《きゆうくつ》さを感じた頭を手で触ると、シルクハットのような帽子がかぶせられている。手元には赤いボタンが置いてあるところを見ると、これを押すとピローンとなって、帽子の上に「○」マークが出ることが予想された。 「久美子さん、準備ってもしかして……」 「はい?神山《かみやま》くん、ウルトラクイズ出るんですよね?だから、それの練習です。、テンコさんがいないから、代わりにわたしが……。ほら、もし予選突破して、テレビに出る決心がつかないとか、そういうことですよね?あれ?違いました?」 「ズコi!ギャフン1スッテーンーー”」 佐間太郎も、昭和初期の驚き方をしてしまうのであった。きっと、なにか別のことを期待していたのかもしれない。それがなにかは、大人の事情により多くは語れない。 「ただいま帰ったぞー!テンコがH」 ---------------------[End of Page 54]--------------------- 階下から耳慣れない声が聞こえてくる。佐間太郎が二階の階段から見下ろすと、玄関にはテンコのカバンを持って得意げにしているキュウタの姿が見えた。 「ちょっとキュウタくん、もういいってば」 「うん?なにを遠慮してるんだ?テンコは俺《おれ》の嫁になる身。重いものなど持たせられないじゃないか」 「だから、それは無理だって言ったじゃない……」 その声にまず反応したのはママさんだった。例のカタツムリのまま居間から這《は》い出してくると、キュウタに向かって声をかける。 「あらあら。元気がいいけど、あんた誰《だれ》?」 「俺はキュウタだ。あんたこそ誰だ?」 「あたしはママさんよー。神山ビーナスよー、おほほほほ」 なにやらコタツの中でスイッチを高速でオン、オフしているようで、中からカチカチカチという音が聞こえてくる。 「ママさん?はっ1もしや、テンコのお母様ですかp」 「そうだけど?なに?」 「お母さんと呼ばせてくださいっ!」 キュウタはカバンを放《ほう》り投げると、ママさんの前に土下座をした。突然の出来事にテンコは慌《あわ》てて彼の頭を上げさせようとする。 ---------------------[End of Page 55]--------------------- 「ちょ、ちょっとキュウタくん、なにしてるの17」 「お母さん、テンコを俺《おれ》にください!」 廊下に額を押し付けながらの懇願《こんがん》に、ママさんはしれっとした口調で答えた。 「え?いいけど?」 「ママさん!いいわけないでしょ1だってこの子、小学生ですよ19”」 「だって佐間太郎《さまたろう》ちゃんを狙《ねら》うライバルが一人減るわけでしょ?だったらいいじゃない。 ピュウタくん?」 「キュウタです」 「どうせならチョロ美もあげるから」 「チョロ美はいりません。そもそも誰《だれ》か知らないし」 「チョロ美はいらないのかあ……(しょんぼり)」 「だから、あげるとかあげないとか言わないでくださいっ1」 テンコが抗議するものの、ママさんは無言で廊下を後退して行った。もちろん、コタツに入ったままの姿で。どうやら、キュウタの相手をするのに飽《あ》きたらしい。 「おいおいテンコ、家まで連れてくることねえだろ」 佐間太郎はため息をつきながら階段を下りてきた。久美子《くみこ》は自室で練習問題をせっせと作っているらしい。微笑《ほほえ》ましい久美子である。 テンコは彼の姿を見つけると、ほんの少し不満そうに頬《ほお》を膨《ふく》らませた。 ---------------------[End of Page 56]--------------------- 「だって、ついてくるんだもん。しょうがないじゃない」 「まあ、お似合いっちゃーお似合いだけどな」 「なっPなによそれ1」 彼女の脳裏に放課後の校庭での一件が過《よぎ》る。またカッとなってしまうと、話がややこしくなる一方だ。ひとまず冷静にならなくては。 「コホン。佐間太郎は置いといて、とにかくね、キュウタくん」 テンコはしゃがみ込むと、小さな彼に目線を合わせた。 「あたしはまだ結婚とか恋人とかよくわからないし、必要ないって思ってる。だから、キュウタくんの恋人にもなれないし、結婚なんて無理。だから、あきらめて?」 「だけどさテンコ……」 キュウタ少年は必死に言葉を探そうとするが、テンコの瞳《ひとみ》がなにを言っても無駄であると語っているようだった。 「ごめんね」 そう言って彼女は、彼の頭を優しく撫《な》でる。彼は下を向いて黙ってしまった。テンコのことをあきらめたように思えた。彼女は佐間太郎の方を向いて、ホッとしたような、少し怒ったような顔をした。 「テンコ」 小さくキュウタ少年が眩《つぶや》く。 ---------------------[End of Page 57]--------------------- 「なに?」 「俺《おれ》はあきらめない」 「ううん、ごめんね。だから、結婚なんて」 それ以上、テンコは言葉を続けることができなかった。なぜなら、キュウタ少年は目を硬く閉じ、彼女の唇に自分の唇を押し当てたからだ。 プシュルルルルルルルルとテンコの頭から湯気が上がる。むしろ、ちょっとゼリー状っぽい変なのも出たような気がする。出てない気もする。ともかく、それほどショックだったのだ。佐間太郎《さまたろう》も口をアングリと開けて、その光景を見つめた。テンコが、小学生に唇を奪われたのである。 「ぷはっ!」 キュウタはテンコから飛びのくようにしてキスを終えると、佐間太郎に向かって大声で怒鳴《どな》った。 「テンコは俺のもんだ1キスもしたし、俺のもんだっ”二 それから、少年は全速力で外へと飛び出す。ノゾミも「わーわー」と騒ぎながら姿を消した。玄関では、テンコが真っ白く灰のような状態でしゃがみ込んでいる。燃え尽きたのだ。 「小学生に……キスされた……」 相当ショックだったのだろう、今でも微《かす》かに湯気がプシュポシュ……ポフ……と断続的 ---------------------[End of Page 58]--------------------- に上がり続けている。階段の途中では、佐間太郎も同じように真っ白になっていた。 「テンコが……キスされた……」 相手は小学生とはいえ、男である。しかも唇と唇だ。もちろんテンコは佐間太郎の恋人でもなんでもない。だから、誰《だれ》とキスしようと自由なのである。だが、なんちゅうか、このやりきれなさはなんだ。このもどかしさはなんだ。誰に文句を言えばいいのだろう、どこに怒りをぶつければいいのだろう。 そのムズムズが頂点に達した時、テンコと佐間太郎は同時に叫《さけ》んだ。 「なにしてんだこのやろう1」 「あんた、なにしてんのよー!」 なにもしてない。お互いになにもしてない。ただ、されただけなのに。 二人はなぜかお互いに責任があるような調子で、大声で怒鳴り合うのであった。 その夜、食卓に二人の姿はなかった。久美子《くみこ》が食事を作り、ママさん、美佐《みさ》、メメの三人の前に食器を並べている。 「神山《かみやま》くんにテンコさん、どうしたんですか。部屋から一歩も出てこないですけど……」 「さあね。どうせまたケンカじゃないの?」 ほぼ下着姿で、美佐がパックから牛乳を飲んでいる。ちなみに彼女は、納豆を食べながら牛乳が飲める女である。さすが、神山家の長女。 「ちょっと呼んでみましょうか?」 ---------------------[End of Page 59]--------------------- 久美子《くみこ》はそう言って、三人の顔色を窺《うかが》った。彼女以外の三人は慣れたもので、別に放《ほう》っておけばいいんじゃないの、という表情をしている。 ちなみに、ママさんはコタツに入ったまま、食卓のイスに座っている。どんなふうに座っているのか。これはちょっと、文章では表すことは無理である。みなさんの想像力に期待しよう。 「ねえ、お姉ちゃん」 『うん?』 メメの言葉に、久美子と美佐《みさ》の二人が同時に反応した。久美子は恥ずかしくなって、顔を赤らめる。彼女はつい最近、メメから「お姉ちゃん」と言われるようになっていた。だが、美佐も同じ場所にいる以上、今のは美佐のことを呼んだことになるのではないか。 そう思うと久美子は耳まで赤くなってしまう。 「あー、メメちん」 そんな彼女の気持ちを知ってか知らずか、美佐は口の周りを牛乳で白くしながら言った。 「どっちのお姉ちゃんかわかるように言いなさい」 「うん。わかった」 メメは美佐と久美子を交互に見てから。 「ねえ、久美子お姉ちゃん。ゴハンよそってあげる」 と言って小さな手を出すのだった。 ---------------------[End of Page 60]--------------------- そんなアットホームな展開を他所《よそ》に、佐間太郎《さまたろう》とテンコの関係は悪化していく……。 翌日の早朝、久美子はベニヤ板の穴を抜け、佐間太郎を起こさないようにしてそっと部屋から出て行った。この時間ならばすでにテンコは起きて朝食の準備をはじめているに違いない。 いつからだろうか?先に朝食を作った方が、佐間太郎を起こせるというルールになっていた。そもそもテンコが毎朝佐間太郎を起こしていたが、久美子が居候《いそうろう》するようになり、その役目は彼女のものになった。最初は「あーああ、あたしの仕事がひとつ減ってラッキー1」などと強がっていたテンコだったが、久美子と佐間太郎が二人して朝食をとりにダイニングへやってくるのを見ていたら腹が立ってきたらしい。 ある日、久美子を体育館の裏にわざわざ呼び出してこう宣言した。 「作りたてのゴハンを食べさせたいから、これからは朝食を作った直後に、あたしが佐間太郎を起こすわ」 ふう、これで一安心。そうテンコは思った。しかし、翌日のキッチンに久美子の姿を見つけた。もちろん彼女は、佐間太郎の朝食を作っていたのである。 「ふふ、テンコさんはゆっくり寝ててください。わたしがゴハン作りますから」 その日から、どっちが先に起きて朝食を作るかのバトルが始まった。なんのバトルかよくわからないが、女心のバトルなのである。 ---------------------[End of Page 61]--------------------- そんなわけで、当然今日もテンコが朝食を作っているだろう。そう思って久美子《くみこ》は急いで階段を下りた。 「テンコさん、今日も早いですあれ?」 しかし、キッチンに彼女の姿はなかった。どうしたのだろう、まさかなにかの作戦だろうか?いやいや、テンコに限ってそんな器用なことができるわけがない。 もしかして体調でも崩したのだろうか。不安に思った久美子は、二階へ戻るとテンコの部屋のドアをノックした。 「あのi、テンコさーん。天使のテンコさーん。もう朝ですよ?ゴハン、先に作っちゃいますよ?」 しばしの沈黙。中から返事はない。うーん。少し考えてから、久美子はなるべく音を立てないようにしてドアを開けた。廊下の明かりが真っ暗な彼女の部屋の中へと差し込む。 その瞬間、もんのすごい眠そうな目のテンコが、ベッドからガバッと起き上がった。 「ひいつ!テ、テンコさんー2」 「なに……?久美子さん、なに?」 目の下にクマを浮かべ、真っ赤に充血した眼球で睨《にら》みつけてくる。彼女の全身からは、おばけ屋敷に置いてある人形のような、安っぽいが力強いオカルト感覚バツグンのオーラが滲《にじ》み出ていたのだ。 「今日はお寝坊ですか?」 ---------------------[End of Page 62]--------------------- 「違う。寝てない。ずっと起きてた」 「そ、そうなんですか……。ええと、なにかあったんですか?」 「考え事」 髪の毛もボサボサに、テンコは空《うつ》うな目をしている。あんまり深く関わらない方がいいだろう、久美子はさりげなくその場から去ろうとした。 「あ、そろそろわたくし、ラジオ体操第二の時間が……」 「待ってーー“」 「ひんっ!な、な、なんでしょうかっ19」 「キスの味って、どんなね?」 まったく意味がわからない。いや、意味はわかるが、そんな死んだ魚の目で聞かれるようなことではないはずだ。久美子は、背筋に寒気《さむけ》が走るのを感じた。 「ど、どんなって言われましても、これ。久美子的にはわかりませんです」 「答えてくださいよ、久美子さん。ひひ」 うわ、「ひひ」って笑った。怖い。 「え、ええとそうですね。たぶん、レモンとか、じゃないですか?」 とりえあず無難に答えよう。そしてさっさと逃げ出すんだ。そう考えた彼女であったが、残念ながらそうはいかなかった。テンコの目は不意にグワッと見開かれ、額にピキビキっと血管が走り、最後に大声で彼女は叫《さけ》んだ。 ---------------------[End of Page 63]--------------------- 「あだちのギスは、よっちゃんイカだったわよおおおおおおH」 「ごめんなさああああああいいいい11”」 わからない。どこがどう怒りの琴線に触れたのかわからない。ただ、ただ、逃げ惑《まど》う久美子《くみこ》であった。 「はい、お待たせしましたっ」 久美子お手製の朝食が神山《かみやま》家の食卓に並ぶ。神様家族は手を合わせ「いただきますっ」 と食事に手を伸ばした。が、ひとつだけ席が空いている。テンコの席である。 いつもは隣の席で、頭から湯気をシュポシュポと出している彼女のことを考えて、久美子はフォークを唇にあてた。うむむ。 「あの、神山くん。テンコさん、どうかしたんですか?」 「別にどうもしてないんじゃないの?うまいね、この目玉焼き」 「あ、そうですか。はい、ありがとうございます」 いつもより静かな食卓。カチャカチャと食器の音が響く。 「あの、美佐《みさ》さん。テンコさん、呼んできましょうかね?」 「え?いいんじゃないの、別に。ところでンマイね、この牛乳」 「あ、はい。えと、牛乳はいつもと同じですよ」 カチャカチャ。ぱくぱく。ごくん。もぐもぐ。 ---------------------[End of Page 64]--------------------- 「ねえメメちゃん、テンコさんどうしたのかな?」 「……さあ?この納豆、ネバネバがネバネバ」 「う、うん。納豆はネバネバするものだからね」 カチャカチャ。ぱくぱく。ごくん。もぐもぐ。 「あの、ビーナスさん。テンコさん……」 バシンッ、とママさんは茶碗《ちやわん》をテーブルに叩《たた》きつけるようにして置く。突然のことに、久美子はビクッと身を震わせた。 「ふふふふ。チョロ美。よく聴きなさい」 「えと、わたしはチョロ美じゃなくて、一応、久美子です」 「テンコには彼氏ができました」 「えええええええええっ11“」 テンコに彼氏がPあまりに唐突なニュースに、久美子はイスから立ち上がる。 どっちかというと、コタツを背負ったまま食事を取っているママさんの姿の方が驚きなのだが。 「そ、それって本当ですか、神山くん、本当ですかー9…」 「別に俺《おれ》、興味ないし」 「興味ないってp“だって、テンコさんと神山くんはムニャムニャハニャー、アイター」 どうしていいかわからず、とりあえず彼女は考える人のポーズで熟考に入った。 ---------------------[End of Page 65]--------------------- なんじゃそりゃ、どういうことかしら。だってテンコさんは神山《かみやま》くんのことが好きなんじゃないの?なのに、なんで彼氏?どうして彼氏?いつ彼氏? 悩みに悩みまくる久美子《くみこ》に、ママさんが追い討ちをかける。 「プロポーズもされてたみたいよ。とりえあず、ママさん的にはOK出しておいたけど」 「ええええっPOK出したんですか1そもそも、なんでママさんがOK出すんですか1」 「だってさあ、娘さんをくださいって言うから、はい、あげます、って。ついでにチョロ美もあげますって」 「チョロ美もあげちゃダメですよ1それより神山くん、いいんですか17”」 今度は佐間太郎《さまたろう》が食器を叩《たた》きつけるようにして置く。 「久美子さん、いちいち俺《おれ》に言われても。関係ないからさ」 「関係ないって、だって神山くんはテン.コさんの……」 「いいんじゃないの?本人の自由だし。ごちそうさま。俺、行く」 「行くってどこにですかー9“」 久美子はなぜか胸が苦しくなった。どうして、いつの間にこんなことになってしまったんだろう。クイズの予選のこともそうだ。なんでわたしの知らない問に話が進んでしまうのだろう。ああ、わたしってばなにも知らない女。ぐすん。 「じゃあ俺、学校行くから」 ---------------------[End of Page 1]--------------------- 彼はそう言って、イスの足に立てかけてあったカバンを掴《つか》むと廊下へと歩き出した。 「み、みなさん、このままでいいんですか?テンコさん、結婚しちゃうんでしょ?」 久美子は両手を振って訴えかけるが、ママさんも美佐《みさ》もメメも、まったく動じた様子なくパクパクとゴハンを食べている。 「メメちゃん、いいの、これで?」 「いいんじゃない?」 「美佐さん、止めないんですか?」 「今日の牛乳、いつもより白いね。かなり」 「同じですっ1ビーナスさん、テンコさんと神山くん、大丈美なんですか?」 「はあ、まったくしょうがないチョロ美ねえ」 ママさんは口の端《はし》に納豆をつけながら、女神らしい優しい微笑を浮かべる。 「いつものことなんだから心配しなくていいの。すぐに仲直りするから」 「でも、その、結婚だなんて……」 「わかったわかった。チョロ美がそこまで言うなら、テンコの様子見てきてあげるから。 あんたは佐間太郎ちゃんの方をよろしくね」 「は、はいっ」 ママさんはそう言うとコタツの中に納豆の入った小鉢《こばち》をササッと収納し、そのままの姿(カタツムリ)で二階への階段をズリズリと上っていった。 ---------------------[End of Page 2]--------------------- 「神山《かみやま》くん……」 久美子《くみこ》はカバンを手に取ると、慌《あわ》てて玄関へと向かう。二人の仲が上手《うま》くいくと心が苦しくなる。だけど、逆に上手くいかないと、もつと辛《つら》くなる。どうしてだろう。どうしてなんだろう。 「久美子さん、先に一緒に学校行こう」 玄関では、ローファーを履《は》いた佐間太郎《さまたろう》が久美子を待っていた。 「あの、でも、テンコさんは?」 「テンコ……。いいよ、置いてけば」 佐間太郎は、玄関からテンコの部屋のある二階を眺《なが》める。 昨日、この玄関で、テンコは他《ほか》の男とキスをしたのだ。たとえ相手が小学生であっても、男は男。許せるものではない。 ……許せる?いや、許すも許さないもないのだ。そう、テンコは自分のものではない。 神様候補である自分の世話係の、ただの天使である。だから、余計なことに悩む必要はないのだ。 「あの、神山くん?その……」 振り返ると、久美子が心配そうな顔で佐間太郎のことを見ていた。 「ううん、なんでもない。やっぱり先に行ってようよ」 彼は心の中で絡む感情のタコ足配線をバスッと切り捨て、勢いよく玄関のドアを開けた。 ---------------------[End of Page 3]--------------------- 「よう。テンコはいるか?」 切り捨てたタコ足配線が、一気に絡まるのがわかった。神山家の玄関先には、野球帽をかぶったキュウタ少年が立っていたからである。その後ろでは、眠そうな顔をしてノゾミがアクビをしていた。 「佐間太郎。テンコは、まだかよ?」 キュウタの顔を見た瞬間、佐間太郎はどうしていいかわからなくなった。その時、ハッキリと感じてしまったからだ。自分は、目の前にいる小学生に嫉妬《しつと》していると。 「今日は学校休むんじゃないか?」 佐間太郎は、咄嵯《とつさ》に嘘《コつみも》をついてしまった。そのことが恥ずかしくて、久美子の手を取ると早足で家を出る。 「え?神山くん、テンコさん休むなんて言ってないんじゃ……」 「いいから歩いて」 「あ、はい。あの、それにあの子、誰ですか?」 「予選B組のライバル」 「え?クイズのP」 「さ、早く行くよ」 「あ、待ってくださいってばあ」 二人は無言のまま、タスタスと住宅地を学校に向かって歩き続けた。佐間太郎が普通で ---------------------[End of Page 4]--------------------- はないことがわかったので、久美子《くみこ》は戸惑《とまど》いながらも後を追う。 「神山《かみやま》くん、もしかして怒ってます?」 「怒ってないよ。全然怒ってないし。そもそも、どうして久美子さんに対して怒んなきゃいけないの?」 「いえ、その、わたしじゃなくて。テンコさんとも関係してるんでしょう?誰《だれ》かに、怒ってますよね?」 「そんなことないって。気のせい気のせい。じゃあさ、例えば誰とか?」 「例えば……」 久美子は人差し指を唇に当てて、うーんと考える。 「あ1あの、例えば、さっきの小学生の男の子とか」 ガツーン!図星である。佐間太郎《さまたろう》は、キュウタ少年に対して嫉妬《しつと》し、やり場のない怒りを感じていたのであった。 「うわ、神山くん、その、あっちゃー」 図星を指されてうろたえる彼を見て、久美子はしまったという顔をする。ものすごく適当に言ったことなのに、まさかここまで反応されるとは。今まで平気な顔して歩いていたくせに、あきらかに止まったし。マンホールのブタを凝視しているし。おかしい。おかし過ぎる。しかし、久美子は昨日のキスの一件を知らないでいる。したがって、どうして佐間太郎がそこまで小学生に対して腹を立てているのかわからないでいるのだ。 ---------------------[End of Page 5]--------------------- 「久美子さん、その、えと、俺《おれ》、忘れ物」 「え?じゃあ、一緒に戻りますか?」 「ううん。俺だけ戻るから、先に行ってて。あと、これ、持ってて」 「あ、はい……」 そう言うと佐間太郎は、カバンを久美子にボスンと預けてからダッシュで今来た道を戻って行った。 「神山くんて、わかりやすいんだから……。はあ、でも、よかった。なんとかなりそう」 久美子は呆《あき》れつつも、そんなわかりやすい彼のことをかわいいと感じていた。 それが乙女《おとめ》心。ここが世田谷《せたがや》。 自宅に戻ると、玄関でキュウタとテンコがなにやら押し問答をしているのが見えた。どうせ、テンコのカバン運んでやるとか、遠慮しますとかその程度のことだろう。佐間太郎が走ってくる姿を見つけて、テンコはホッとした顔になったが、すぐに緩《ゆる》めた顔を引き締めなおした。 「なんだ、佐間太郎か。俺は今からテンコと学校に行くんだ。邪魔しないでもらおうか」 キュウタ少年はそう言って、テンコのカバンを持とうとしている。 「だからね、キュウタくんだって学校に行かなくちゃダメでしょ?だからあたしのことは放《ほう》っておいて?ね?お願いだからっ」 ---------------------[End of Page 6]--------------------- 「いいんだよ、どうせ学校に行っても居場所なんてないし。ささ}遠慮するんじゃない。 水臭いじゃないか。俺《おれ》とテンコは、お母さんも認めた仲。気にすることはないそ」 「あれはママさんが勝手に鰻」 二人のやりとりを見ていると、自分の頭の中にモヤモヤが広がっているのが佐間太郎《さまたろう》にはわかった。これはいわゆる、嫉妬《しつと》とかヤキモチとか、その手の奴に違いない。だが、どうしてテンコなんかにヤキモチをやかなくてはならないのだ。 「もう、佐間太郎、なんとかしてよう」 ついにテンコもまいってしまったのか、彼に助けを求めた。カバンをキュウタと引っ張り合いながら、彼女は眉毛《まゆげ》を弱々しく八の字に曲げる。 佐間太郎は、彼女の弱りきった表情を見た瞬間に、胸の奥が詰まるのを感じた。息苦しさのようなものが、心の奥でグネグネと動く。なんだか、いつかも同じような状況があったような気がする。すごく遠い昔。言い出したいけど言い出せない。そんな毎日を送っていたような気がする。ただ、それがいつのことなのか思い出せない。、あるいはそれはただの夢で見た記憶かもしれない。 どっちにしろ、彼はいてもたってもいられなくなって、二人に近づいた。 「おいガキンチョ、いい加減にしろって」 佐間太郎はそう言って、テンコのカバンをなんなく引ったくった。 「いいか、お前はテンコとは付き合えないんだ。結婚もできない。わかるか?だからも ---------------------[End of Page 7]--------------------- うあきらめろ」 彼がやや強めの調子で言うと、少年は大げさに両手を振り回す。 「なんでだよ1俺はテンコのお母さんに許可ももらってんだ。お前の出る幕はないんだからな!」 「よく聞けい」 テンコは、「あっ」と声を出す。なぜなら、佐間太郎の腕がスッと伸びて、彼女の肩を抱きしめたからだ。そしてそのまま、彼は自分にテンコを強く引き寄せる。 「テンコは俺の彼女だ。だから、お前の出る幕はない。わかったらさっさと帰れ」 瞬間・世田谷《せたがや》・恋色。 時が止まった。テンコは佐間太郎の腕の中で、彼が言った言葉を何度も繰り返す。 テンコは俺の彼女だ。テンコは俺の彼女だ。テンコは俺の彼女だ。 この人間界に生まれてから、初めて聞いた種類の言葉が、桃色に染まって彼女の鼓膜《こま!、》にまとわりつく。甘い空気の震えは、心の中心をいたずらにくすぐった。 キュウタ少年は、突然のことに唇を噛《か》み、二、三歩後ずさりをする。それだけ彼の言葉には威力があったのだ。 「う、嘘《うそ》をつけ!そんなこと俺は聞いてないそ!」 少年はなんとか地面に踏ん張り、負けじと声を上げる。だが、佐間太郎はフッと言葉を受け流し、さらに強い調子で言った.、 ---------------------[End of Page 8]--------------------- 「だって昨日から付き合ってるんだもんね1だからお前は知らないんだもんね!」 勝った。佐間太郎《さまたろう》は勝利を確信する。実際、キュウタ少年は目に涙をためて走り去ってしまった。なんて気持ちがいいんだ。あの小生意気なクソガキを、叩《たた》きのめしてやった。 小学生の分際で恋愛なんて十年早いんだ。いや、十年ってことはないか。あと二年ぐらい早いんだ。ふふ、ふははは1勝ったぞ1あのガキに勝ったぞ11” 赫痘知ないほどの喜びを噛み締める佐間太郎。一応、これでも神様の息子である。偉大なのである。小学生をイジめているように見えるが、そんなことはないのである。 「はあ、ひとまずこれで、もう付きまとわれなくて済むだろ。なあテンコ…・:」 彼は、自分の腕の中にいるテンコに視線を移した瞬間、ものすごく嫌なオーラを感じた。 「さ、さ、さまたろうう……」 彼女は、彼の腕の中で、手をグ!にして口の前に固定し、目に星を浮かべ、頬《ほお》を桜色にしていたのであった。そう、これは誰《だれ》がどう見ても、あきらかに「恋しちゃった少女の表情」なのである。 「おい、テンコ?おい、あの?大丈夫?」 「た、たいちょぶてす……」 あきらかに大丈夫じゃなかった。彼は慌《あわ》てて自分の言った言葉を思い出し、説明する。 「いや、あのな、俺《おれ》とお前は付き合ってるわけじゃないだろ?さっきのは、あの子供を追い返すための嘘《うそ》だからな?わかってるな?」 ---------------------[End of Page 9]--------------------- 「そそそそそ、そんなのわかってるってば!嫌だな、佐間《X鳩ま》タロ、あは、あはははー.あはははは!」 テンコは、本当にそれは理解している。キュウタを追い払うために佐間太郎《さまたろう》が嘘《うそ》をついたことは、わかっているのだ。ただ、彼の口から発せられた「テンコは俺《おれ》の彼女だ」という言葉が、彼女の脳みその一部をちょっとだけ破壊してしまったのであった。 「おい、テンコ?わかってるよな?あれは、嘘だぞ?もう一回言うそ、嘘だからな?」 「う、うん。嘘でしょ、うん、な、なに言ってんの、もう、やだ、あはは」 テンコは佐間太郎の腕からすり抜けると、あははと笑いながらフラフラと歩き、玄関から出た瞬間に、顔面から電柱にぶつかった。 「わあ」 となぜか嬉《うれ》しそうに悲鳴を上げた彼女は、道路に倒れたまま「うふ、うふふふふ、うふふふふふ」と笑っている。 「やべえ。テンコが壊れた」 「えへへへ。えへへ。嘘なのはわかってます。えへ、えへへ」 プシュ、プシュ、と彼女の頭からは湯気が漏《も》れ続ける。むしろ、湯気の勢いにより地面の上を転がっている。すごい、蒸気の力で動いているのだ。もうちょっと頑張れば機関車である。 結局テンコは、それから二十分もゴロゴロと地面を転がりながら「あ:1もー!な ---------------------[End of Page 10]--------------------- にー1えへヘへ」とのたうち回るのだった。 「おはよ!おはよう!おはよう人間のみんな!」 菊本《きくもと》高校の教室に着くなり、テンコはクラスメイト全員に握手と共に挨拶《あいさつ》をし、それから無駄に電気をカチカチとやって「ディスコ1いまの電気、ディスコっぼくないー9…ほら、ディスコって電気チカチカするじゃん!行ったことないけど1」などと言ってから席に着いた。その時のクラスメイトのキョトン顔っぷりと言ったら筆舌に尽くし難しである。 彼女のトンデモ行動っぷりは早速クラスの話題となり、「なになにテンコちゃん彼氏でもできたんじゃないの?」「でもあの子、神山《かみやま》と付き合ってんだろ?」「なんでも結婚するらしいよ」「嘘ー9日いつだよ1」「今?」などと根も葉もない噂《うわさ》が煙のように広まった。 進一《しんいち》も口をアングリと開けてその様子を見ていたが、一番驚いたのは久美子《くみこ》である。朝見た、あのローテンションな彼女はどこに消えてしまったのか。今目の前にいるのは、毒キノコ食べて暴れ回っているようなハイテンションテンコなのである。 「ねえねえ、神山くん。なにかあったの?」 ニコニコ顔で着席する(ちなみにこの時テンコは「どっきりカメラ!」と叫《さけ》び、マンボのリズムを口ずさみながら、座ったり立ったりを何度か繰り返したのだった)彼女に聞こえないように、久美子は佐間太郎に耳打ちした。 「いや、えーと。まあ、色々あってね」 ---------------------[End of Page 11]--------------------- 「色々ってつ─」 「まあ色々です。あ、先生くるよ」 「あ、うん」 担任教師の登場により、話題は打ち切られた。納得できない顔で自分の席に戻る久美子《くみこ》を見ながら、佐間太郎《さまたろう》はテンコに向かって心の声を送った。 「お前、テンション高すぎ』 ほにゃーと黒板を見つめていたテンコは、急に顔を赤くすると、同じく心の声で猛抗議をした。 『なに言ってるですか!普通ですよ、テンコ普通ですよ1むしろ普通以下ですよ1えー!おいおい普通以下ってバカにしてんのかよおーほろうーん。むひひ』 全然抗議になっていない。それどころか、最後の方では顔が半分ぐらい溶けている。 顔がゆるみっぱなしの彼女を見て、彼はため息をついた。いや、なんというか、テンコの気持ちがわからないわけではない。そして、こんな風に喜んでくれるのも嬉《うれ》しいっちゃ1嬉しい。だが、あまりにもテンション高すぎなのではないだろうか。大丈夫か。 『いいかテンコ、もう一度言うけどな、これは嘘《うそ》だから?あの子供が邪魔だから、あの子供だけに対しての嘘だから』 『うんうん。わかってるってばー!もう、佐間太郎ってんばあ1』 わかってない。絶対わかってない気がする……。あるいは、わかっててこれなら余計に ---------------------[End of Page 12]--------------------- 性質《たち》が悪い。 結局、クラスメイトたちの「なに、あれ?」的な視線の中、テンコは一日中ニヤニヤとしながら黒板に視線を向けていた。放課後になると、進一《しんいち》がやってきて佐間太郎のシャツを引っ張る。 「おい、なんだ、どうかしたのか?テンコちゃん、悪いもんでも食ったんじゃないのか?落ちてるガムとか」 「いや、落ちてるガムは食べるかもしれないけど、違うから」 「そうか?もしやお前ら……」 「佐間太郎っ1」 顔をつき合わせて話す二人の間に、腕だけクロールの動きで割って入ってきたのはテンコだ。彼女はニコッと進一に笑いかけると「ごめんなさいね、今から佐間太郎と帰るからブハハハ」と言って彼を教室から連れ去って行った。 取り残された進一は、どうしていいかわからずに久美子の席へと向かう。 「ね、凡ね、凡、なにあれ?テンコちゃん、なんか悪いもんでも食ったの?落ちてるガムとか」 「いやー、落ちてるガムを食べてもおかしくはないですけど、違いますね。わたしもどうなってるんだかよくわからないんです」 「久美子さんっ!」 ---------------------[End of Page 13]--------------------- その時、背後から、落ちてるガムを拾って食べる女として複数の人から認識されているテンコが現れた。一緒にいたはずの佐間太郎《さまたろう》の姿はない。きっと、廊下で待たされているのだろう。 「な、なんですか?」 不安げにテンコを見上げる久美子《くみこ》を、少し自分の方へと引き寄せると、キスするように顔を近づけた。そして、囁《ささや》き声で。 「これは絶対内緒なんですけどね」 とかなんとか、わざとらしい前置きをしてから。 「あたし、テンコは、神山《かみやま》佐間太郎と……」 二茜・つ。 「付き合ってます1」 言ってしまった。 「あたしと佐間太郎は恋人同士なんですっ。ヨロピク1」 トドメまで刺した。 「ええええええええええええっ11“」 その時の久美子の顔ってば。マジ白目。世界の終わりを見たような顔をしていた。この驚きには様々な理由がある。朝、誰《だれ》かと結婚すると言っていたのはなんだったのか。もしや、その相手というのは佐間太郎のことだったのだろうか。みんな、なんてことない顔を ---------------------[End of Page 14]--------------------- していたのはなぜだろうか。っていうかコレ、どっきりじゃないの?いや待てよ、プロポーズされてたとママさんは言っていた。ということは、佐間太郎はテンコにプロポーズしたのだろうか。 「あわわわわわわわ」 波打つ口で手をくわえ、完全にパニック状態にいる久美子。テンコは、彼女を見下ろしながら「勝った。あたしの圧勝」という笑顔を残して教室を去ろうとする。 「ちょ、ちょっと待ってくださいテンコさん!わたしだって神山くんとは……」 久美子は言うか言うまいかためらったが、今言わなければどうすると決心をした。 「わたしだって、神山くんとは……お風呂《ふろ》上がりに……裸で……エチケット袋の仲なんですからね」 「がびーん1」 わかりやすすぎるほどわかりやすいポーズ(イヤミのシェー)で驚くテンコ。それを見た久美子は、フフフッと小悪魔的な笑顔を浮かべた。 少し離れた場所で聞き耳を立てていた進一《しんいち》には、会話の断片しか聞こえてこない。 彼の元に聞こえた断片はコレである。はい、ドン。 ㈰あわわわ。 ㈪裸でエチケット袋。 ---------------------[End of Page 15]--------------------- ㈫がびーん。 この三つのセンテンスから、なにを想像しろと言うのだろうか。彼は頭を悩ませる。シンイチブレインで必死に考えたところ、二人はお互いに真っ向から真剣勝負をしているのだろうという結論にたどり着いた。なんの勝負かはまったくわからないが、女の戦いとか、意地の張り合いとか、そんなところだろう。 それにしても、一番気になったのは「裸でエチケット袋」という言葉である。 第三者の進一《しんいち》はともかく、テンコにもその言葉の意味を理解することはできない。なにしろ、言ってる久美子《くみこ》もよくわからないのだから。しかし、エチケット袋も、深く考えてみればエッチな単語に聞こえてこないこともない。 「そ、それでもね、久美子さんっ、聞いてください……」 しかしテンコは地面から立ち上がり(いつ倒れたのかわからないけど、倒れていた)、血を口から吐き捨て(いつ血が出たのかわからないけれど、出ていた)、久美子に向かって人差し指を突きつけた。 「今付き合ってんのはアタクスィテェンコざますから、そこんとこヨロシクでございますのよ、この過去の女なあんがああああH」 「がああああああああんんH」 久美子は落雷を受けたようなショックに、口から血をドバドバ吐いた。 ---------------------[End of Page 16]--------------------- 「おほほほほ、それではごきげんざましょー久美子さん。また会いましょう……自宅で!」 「……自宅で、凡っ(ごぼごぼっ)」 戦いは終わった。完全にテンコの勝利である。テンコは教室から出ていくと、久美子は机にしがみついてようやく立ち上がる。 「く、久美子ちゃん、大丈夫?血が出てるけど」 心配そうに近寄る進一にトマトケチャップのチューブを見せてから(彼女なりの演出でした)、久美子は窓際《まどぎわ》によろよろと歩み寄り、そのまま空を見上げた。 「ああ、世界って広いなあ……」 よほどショックだったのだろう。言っていることに間違いはなかったが、別に今言わなくてもいいのに、と進一は思うのであった。 一方廊下では佐間太郎《さまたろう》が不安そうな顔をして彼女が戻ってくるのを待っている。誰《だれ》にも内緒だぞ、と言ったものの、今日一日の様子を見ているとテンコが秘密を守るとは考えられない。とくに久美子。彼女には絶対言うような気がする。落ちてるガムを食べないとしても、久美子には言う。きっと「誰にも内緒だよ」かなんか前置きしてから、得意げに言うのだろう。なんて天使だ。 「あ、お待たせ、佐間太郎っ」 ケチャップのチューブをカバンにしまいながら、妙な内股《うちまた》でテンコはやってきた。佐間太郎がなにかを言いかけようとすると、手のひらを彼の顔にビシッと向けて断言する。 ---------------------[End of Page 17]--------------------- 「久美子《くみこ》さんには言ってません」 すごく嘘《うそ》くさい笑顔だった。あとトマトくさかった。 「ところでね、佐間太郎《さまたろう》。きっと今日も校門でキュウタくんは待ってると思うの」 なんだそのモジモジは、というぐらいのモジモジ動作で彼女は佐間太郎に擦《¢》り寄る。 「ああ、まあ、そうだろうな」 「あの子にはあたしたちが恋人同士だって言った手前、やっぱりイチャイチャしてるとこを見てもらわないといけないと思うのよね」 「そ、そう……だな」 「だから、これからは毎日、下校時や登校時などはカップルっぼく1」 まあ、そんなことだろうと思った。彼女は期待に満ちたウルウル目で佐間太郎のことを見る。さらに、両手は軽く握りこぶしにして、口の下である。ブリッコポーズである。 そんなところで校門でキュウタ登場。テンコは「わかってるよね?」という顔をして、そっと佐間太郎の手をキュッと握る。彼の猫背は、思わずピクッと伸びた。 「佐間《尾、ま》っち。って呼んでいいかにゃ?」 口元を猫のそれにして、フニュニュとテンコは微笑《ほほえ》む。よくねーよ!いいわけねえだろ1なに考えてんだお前は1それはあれか、新手《あらて》の嫌がらせかっ!と怒鳴《どな》りたかった佐聞太郎であったが、キュウタ少年がジロッとこっちを見ているので、拒否するわけにはいかない。フルマラソンの後に、ゆで卵の黄身だけをムシャムシャ食べるような苦難の ---------------------[End of Page 18]--------------------- 末に、なんとか「う、うん」と笑顔で答えた。 「じゃあさ、佐聞っちはテンコのことなんて呼びゅ?」 語尾、ムカつく。これは素《す》なのだろうか?それとも、カップルらしさを演出するための戦略なのか。 「いや、えーと、俺は、その、テンコはテンコでいいと思うよ。元々呼び捨てだしさ」 「やだ……」 彼女ははっとした顔になって、佐間っち(苦笑)の瞳《ひとみ》を見つめる。 「な、なんだよ……」 「本当だ、佐間っちってば、今までテンコのこと呼び捨てにしてたのね。まるで夫婦。ライク・ア・夫婦っ」 そう言うと、なぜか「にゃにゃにゃにゃ」と言いながら両手で自分の顔をパタパタとあおぎだした。顔が真っ赤になっている。暑いのか、季節は冬なのに。 「それで、えーと、呼び方の件にゃんだけどね」 あおぎ終わると、彼女はすぐに離していた手をまた絡めた。.この感触が佐間太郎には慣れない。ロマンチクーに説明すると、雨の上がった校庭で、長靴の中にドロを入れてから、そこに足を突っ込んだ時の、あの、指の隙間《すきま》がニュリュニュルとなる感じだ。 あの泥のかわりに、テンコの柔らかい指先が、自分の指の間に絡んでいるのだ。 ……すまん、ロマンチクーとはほど遠かった。 ---------------------[End of Page 19]--------------------- 「テンちゃんって、どう?」 泥のことで頭がいっぱいになっている佐間《尾舳ま》っちに、テンコはそう言った。もちろん視界の隅にはこちらを見ているキュウタ。拒否などできるわけがない。 「ぐ。わかった、テンちゃんって呼ぶ。明日から」 「え〜!今からでしょおー1にゃんで今からじゃないのお1佐間っち、ほら、テンちゃんって呼んでみて1呼んで!てーんっ、ちゃんっ、って!」 握っている手をブルンブルンと振り回しながら嬉《うれ》しそうに叫《さけ 》ぶテンコ。そんな回すな、俺《おれ》は鉛筆削りか。って最近の若い子は手動の鉛筆削りのことなんて知らないか。今は自動か。オートメイションの時代か。嫌な時代になったもんだよ。 「ほら、かわいいテンちゃん、って言ってミ!」 頭の中が泥と鉛筆削りとオートメイションの時代でいっぱいになっていた佐間太郎《さまたろう》は、もう、どうでもええわい、とばかりに彼女の言葉をオウム返しにする。 「かわいいテンちゃん」 「およよ?聞こえないそおー。佐間っちい、聞こえないそー?」 彼は自分の顔が赤くなっていくのがわかった。なんでだ、なんでこんなことで恥ずかしくなるのだ。別に俺はこいつのこと嫌いじゃない。いやいや、スゲエ好きってわけでもないけど、それなりに好きだし。それなりにかわいいとも思ってる。なのになぜ言えんのだ。 この口か、この口が言葉を。 ---------------------[End of Page 20]--------------------- 「テンちゃん。かわいいよ」 言った。 「つうか、お前の笑顔が愛《いと》しいと思う。お前の笑顔は空から聞こえる美しきメロディー。 まるで奇跡の歌声のようだよ。ラブ。ユー。」 トドメも刺した。 「きゃあああああああ!佐間っちってば、正直スギー!」 プヒヒヒヒヒという音と共に、彼女の頭から湯気が立ち上る。佐間太郎はさりげなく手でサッサッと湯気を散らし、なにごともなかったかのようにしてテンコの手を握った。 「さ、帰るぞ」 「うん1いや、むしろ、はいっーー”」 テンコは肩からタックルするようにして、彼に寄り添った。それを見ていたキュウタは、奥歯が砕けるほど歯軋《はぎし》りをするのであった。 一方その頃《ころ》、神山《かみやま》家。いつも通り下着姿の美佐《みさ》がメメの部屋をノックする。 「ねーねi、つめきり貸してくんない?」 メメは机の上で本を読んでいたようで、それをパタッと閉じてから振り返った。 「なに、勉強してたの?」 「ううん。恋愛小説」 ---------------------[End of Page 21]--------------------- 「恋愛小説?そんなの読んでんの?」 「違う。お兄ちゃんからヘルプコールがきたから」 「ヘルプコールり・」 「心の声で、涙目で。メメ、なにか、いい口説《くど》き文句ないかって。ピンチなんだって。だからママの部屋から持ってきた」 美佐《みさ》は小さなサイズのメメベッドに座ると、彼女の差し出した『空のポルカ』という本をパラパラッとめくった。 「ふーん、おすすめの新刊ねえ……」 「はい、美佐姉ちゃん、つめきり」 「ありがと。ガンプラ作るのにニッパーがなくて。これで切る」 「あ、ちょっと待って」 メメは机の下で四つん這《ぱ》いになると、パンツを全開に見せながらゴソゴソとなにかを捜し出した。 「はい、ニッパー。あと紙やすり。と、接着剤にプラパテ」 美佐はプラモデル作製セットを受け取ると、笑顔で言った。 「ウレスィー!完壁《かんべき》じゃん、これ1」 一方、商店街の二人は完壁ではなかった。 ---------------------[End of Page 22]--------------------- 「佐間《曼、ま》っち、これからどこ行くのおー?」 「どこって帰るんだろ?」 「ばかっ、すぐ帰ったら、嘘《うそ》カップルだってのがバレちゃうでしょう?ほら、後ろっ」 チラッと横目で見ると、キュウタが背後から数メートルの距離を保って尾行しているのがわかった。どうやら、どこまでもついてくるらしい。 「ここはほら、カップルらしくデートしないとね!ウインドウショッピングでもいいのよ?」 「デートって言口ってもなあ……。遊園地か映画館ぐらいしか思い浮かばない」 「そ、それだけ?」 「あ!それとあれだ、海の見えるバー!フフン(得意げ)」 思わずテンコは吹き出してしまった。それじゃ、どこかの誰かと同じだ。 「ん?なに笑ってんだよ」 「ううん、なんでもない。そうだ、いつもの雑貨屋さん行く?あそこなら本も雑貨も売ってるし、楽しいよお1前にスグルがワゴンで売り物にされたし1あやうく愛《あい》ちゃんに買われるとこだったんだよね1」 「そんなん知らねえよ1疲れたよ、どつかで休もうぜ」 「どっかってどこ?休むって言っても……」 そこでテンコの動きが止まった。なにかを発見したようだ。嫌な予感がしたが、一応、 ---------------------[End of Page 23]--------------------- 佐間太郎《さまたろう》もその方向を見つめている。 ●ご休憩二時間四五〇〇円 「よし、佐間《慧,ま》っち、ここにしよ?」 テンコ即決であった。 「えええええええええええ!」 「にゃんで?だってここ、休憩するところなんでしょう?ちょっと値段は高いけど、休憩専門の場所があるなんてあたし知らなかったし。入ってみようよ」 彼女が見つめていたのは、大人のためのホテルの看板であった。なんてことだ、この(無駄に)ピュアな天使は、大人ホテルのことを知らないのである。 「バカ、ここはだな、あれだぞ、大人ホテルだぞ?わかってんのか?ご休憩のほかに、ご宿泊とかもあんだぞ!」 「え?ホテルなの?観光名所でもないのに?ふーん。へんなのっ。じゃま、とりあえずご休憩で」 「だからさ1いいからこっちこい、こっちーー”」 「え?なんで、疲れてるんでしょP”ちょ、ちょっとH」 佐間太郎、たぶん生まれてから一番のダッシュした。靴底から煙出てたもの。 「もー1あんなに走ったらキュウタくんに怪しまれるでしょ?」 「バカ、お前、本当バカ1ああいうトコはな、大人になってから行くとこなんだよ1 ---------------------[End of Page 24]--------------------- 大人ホテルなんだから1もう、死ぬかと思ったマジで!冗談とか抜きで1」 結局着いた先は、いつもの公園だった。テンコは水飲み場の水道でハンカチを冷やし、それを彼の頭の上に置く。 「はい、これで少しは頭を冷やしなさい」 「ああ、そうだな。あぶね、凡、色んな意味で危なかった……」 冬だというのに、冷たいハンカチが心地よかった。このハンカチ、いつもテンコが使っているのだろうか。やっぱこう、蛇口ひねる前は口でアムッてくわえて、そんで手を洗いつつ、終わったらフキフキなのだろうか。だとしたら、このハンカチもテンコにアムってされていて、フキフキで……。 「どわああああああああ!」 佐間太郎は、地面の上に直に座っていたのだが、それでも転んだ。器用な男である。 「また顔赤くして、なんでそんな興奮してるの?大人ホテル?」 「いや、その、な、なんでもねえよ」 「そうだ佐間っち、ブランコ乗ろ、ブランコ」 彼女は落ちたハンカチを手で払いながら、公園の隅にあるブランコを指差す.. 「やだよそんなの、子供っぽい」 「いいじゃない、どうせあたしの考えは子供なんでしょ?」 「だからって、ブランコって言われてもなあ……」 ---------------------[End of Page 25]--------------------- 彼の文句も聞かずに、テンコはさっさとブランコの上に座った。鎖を持って、今にも漕《こ》ぎ出しそうな勢いである。いかん。このままではパンツが丸見えだ。丸見えなのはいいが、もし気づかれた時に「パンツ見てたでしょ1もう1佐間《尾「ま》っち……見たいのお?見るう?」などと、例の恋人モードで言われたら死んでしまう。 「まて、漕ぐな!俺《おれ》も乗るから!漕ぐな1」 慌《あわ》てて立ち上がり、彼女の隣のブランコに乗る。いつぶりに乗ったのかは覚えていないが、考えていたよりも視線がずっと低くなった。 「よし、テンコ。じゃあどっちが高くまで上がるか競争だ。いいか、これは遊びじゃないそ、真剣勝負だあああああああああああ1あPああ19”あー9」 驚いた。それはもう驚いた。なぜなら、テンコはブランコからヨチッと降りると、そのままトトトと彼の元までやってきて、膝《ひざ》の上にチョコンと乗ったのだ。二人乗りである。 危険である。あらゆる意味で危険である。 「テンコ1降りろ!今すぐ1っていうか降りてください11”」 両手で鎖を持って首をガンガン振る彼に対して、彼女はそっと振り向いて言った.、 「ほら、キュウタくんが見てるから、イチャイチャしとかないとね」 そうなのか。本当なのか。残念ながら、佐間太郎《さまたろう》の視界はテンコの背中に遮《さえぎ》られ、なにも見えない。ただ真っ白い中に、オレンジのラインの走った菊校《きくこもつ》の制服だけが見える。 「本当かよ。本当に見てんのか」 ---------------------[End of Page 26]--------------------- 「うん。あそこのすべり台の陰にいるよ、本当だよ」 「見えねえ。見えないけど、まあ、わかった。んじゃ、漕ぐそ」 彼はゆっくりと重心を移動させ、ブランコを漕ぎ始めた。テンコの体が、重力によってピタッと密着してくる。背中のラインがわかるほどに、それは親密な距離を保ち続ける。 だから言ったのに。色んな意味で危険だって。 「佐間っち、もっと早く!もっと高く1」 「はいはい、わかってるってばよ」 足で地面を蹴《け》り上げ、ブランコは加速を続けていく。思ったよりも体感速度はあり、遊園地かなにかの乗り物のような感じがした。 「ね、凡佐間っち。スグルって飛んでるじゃない?」 前を向きながら、テンコが話しかけてくる。耳の横をすり抜ける風の音と共に、慣れ親しんだあの声。 「ああ、スグルってブタだろ?・あの根性なしな」 「うん。そう。飛ぶって、こんな感じなのかな」 全然わかんねえ。なぜなら、彼の視界にはテンコの背中しかないからだ。きっと膝の上に座っている彼女の視界には、空がいっぱいに広がっているのだろう。 「お前さ、いつも空見てるよな。窓から」 「え?聞こえない1」 ---------------------[End of Page 27]--------------------- 「ちえ……。いくそ、スピードアップH」 いつか。こんなように、女の人とスピードをどんどん上げていったことがあった。 あの時も、女の人の後ろに自分はいた。いつかは自分が彼女たちの前に立ち、空へと導くことができるのだろうか。 「テンコi、もっと高くかー?」 「え?聞こえないってば1」 絶対聞こえてるはずだ。よし、試しに……。 「……ブス」 「:………………・…」 無視された。 「あたし天使なのに飛べないじゃない?」 「え?」 テンコまで体重の移動を意識的にはじめ、ブランコはギシギシときしみ始めた。グングンと高く上がっていく。地面からたった数メートルなのに、空に届きそうなほどの高さ。 「あたしさ、天使なのに飛べないしさ。ママさんみたいに胸おっきくないしさ、美佐《みさ》さんみたいに大人でもないし、メメちゃんみたいに頭よくないし……それにさ」 風が強くて、彼女の言葉がうまく聞き取れない。 「それにさ、久美子《くみこ》さんみたいにきれいじゃないし。そう、あたしブスだし」 ---------------------[End of Page 28]--------------------- 「なに?なんて?」 「だからさ、まいっちゃうよね。そんなんで天使なんだもん。飛べてもさ、たったこれだけなんだよ。しかもブランコの力で。あはは。どうしよう、いいのかな、こんな天使で」 風の音が、ミントみたいに冷たかった。もうこれ以上高くにはいけそうにない。鎖が邪魔をしている。もし鎖がなかったら、このまま雲の上まで飛んでいけそうなのに。 「佐間太郎《さまたろう》、ごめんね」 テンコはゆっくりと振り向いた。太陽が静かに住宅地の屋根に溶けていく。 オレンジ色の顔をした天使は、少し泣いているようだった。 「ごめんね、こんなダメでブスなのに、あんたのこと好きで」 佐間太郎は、彼女を抱きしめようと思った。抱きしめなくてはならないと感じた。 だから、両手を使って、強く抱きしめた。 そして二人は吹っ飛んだ。4メートルぐらい? 教訓。ブランコ中は、手を離してはいけません。たとえ、どんな事情があっても。 「なんで手、離したの?バカじゃないの?」 顔に砂をつけて、テンコが嬉《うれ》しそうに笑う。神様や女神、そして天使は人間的な痛みを感じることはない。だから、ブランコで吹っ飛ぽうが、なにしようが平気なのである。 「だってさ、泣いてんだもん。やべえ、って思って。なんか言ってるし」 ---------------------[End of Page 29]--------------------- 「あたしの言ってること、聞こえなかった?」 「じゅっちゅーはっく聞こえなかった」 そう言って佐間太郎は口から砂を吐いた。彼女を守るために、顔面から着地してしまったのだ。 二人は公園で一番高いジャングルジムの上にいた。複雑に重なり合った鉄骨の上で、夕陽《ゆうひ》の落ちる最後の瞬間を見物しようと決めたのだ。もうほとんど夕陽は暮れかかっていた。 冬の夜は、音もなくずっと早足でやってくる。 「でもさ、ここだったら、その辺りのマンションの屋上とか行った方がよく見えるぜ?」 「ダメなの。ここがいいの。この高さがちょうどいいの。あたしにはあたしの、ちょうどいい高さがあるんだよ。ムダに高いとこいっても、どうせ居心地悪いだけなんだから。わかる?」 「わかんねえよ」 ジャングルジムからは、公園のほとんどが見渡せた。パーカーを着た男女が園内を横切ったが、それっきり誰《だれ》もこない。きっと顔見知りだったのだろうか、すれ違いざまに女性の方が手をヒョイと挙げて走り去って行った。 「ねえ佐間太郎、さっきの人だれ?挨拶《あいさつ》されたものの、思い出せない……」 「ありゃ先輩だろ?たぶんだけどさあ?てか疲れた。落ちたし。誰かのせいで空中飛んだし」 ---------------------[End of Page 30]--------------------- 「えへへ。ありがとう、あたしを空に飛ばしてくれて」 不安定な鉄の骨の上で、テンコはそっと佐間太郎《さまたろう》に手を重ねてきた。 「なあテンコ、キュウタいないじゃん。もしかして嘘《うそ》ついた?」 「え?さっきはいたよ。帰っちゃったのかもね」 笑いながらテンコは言った。 「ふーん……」 もしさっき、キュウタがあそこにいたら帰るなんてことはしないはずだ。ブランコから落ちたテンコを必死になって助けただろう。まあ、そんなことはどうでもいい。 「ブランコとかジャングルジムとかって懐かしいね。ほら、あそこに鉄棒もあるよ」 ごく自然に彼女は身を寄せてくる。頬と頬が何度か音もなくぶつかった。 「あたしさ、逆上がりできなくて悲しかったなあ……」 「そうか?お前、逆上がり一発OKだったじゃん」 「えー!誰《だれ》と間違ってんだよお。それ違う女じゃないのかよう。こら、佐間たろうっ」 テンコはプゥと頬を膨らませて笑った。空も星も二人に寄り添っているようだ。 佐間太郎は星を見ていた。あれ、なに座?とか思いながら、じっと見ていた。意識を集中すると、目が痛む。少し休もうとして振り向くと、そんな彼のことをテンコがじっと見ていた。 「な、なに見てんすか、テンコさん」 ---------------------[End of Page 31]--------------------- 「さまっち」 「もういいよ、佐間《X−ま》っちはさ。だっていないし、あいつ」 「いるよ、あそこ」 なんてこった。確かに彼女の言う通り、公園のベンチでキュウタはよっちゃんイカを食べながら二人を双眼鏡で観察していた。 「だからほら、カップルらしくね」 テンコはそう言って、佐間太郎の頬に自分の鼻を当て、そのまま目をつむった。 「大好きだよ、さまっち」 これはキュウタに対しての芝居だろうか。カップルらしく見せるための……。 「ぐう」 あ、寝た。 ---------------------[End of Page 32]--------------------- 第三章キュウタロウ 佐間太郎《さまたろう》は、すっかり日も落ちた町並みをテンコを背負って歩いている。突然小学生からされたプロポーズや、ニセカップルを演じることで疲れてしまったのだろう。彼女は佐間太郎の頬《ほお》に鼻をピトッとつけたまま眠ってしまったのだ。 仕方なく彼はジャングルジムの上からテンコを丁寧に下ろし、そのまま背負って家路に就《つ》くことにした。 「おい、早く帰らないと親が心配すんぞ」 これは、まだ背後からくっついてくるキュウタ少年への一言である。 「いいんだよ、親なんていないし」 吐き捨てるようにしてキュウタは言った。彼の背中には、テンコと同じようにして妹のノゾミが眠っている。 「大変だな、お前も。事情は知らないけどさ」 「別に大変じゃねえよ。もっと大変なのが来るぞ」 「もっと大変?」 ---------------------[End of Page 33]--------------------- なにげなく前方を見渡すと、そこには四角い物体がズルズルとアスファルトの上を進んでいた。いけない。見ちゃいけない。そう本能が拒否しつつも、どうしても確認しなくてはならないと彼は思う。 「えーと、あの、えーと、オフクロ?」 「あっらー!佐間太郎ちゃん、どしたの、こんなところで1」 どしたの、はあんたの方である。せめてコタツでの移動は家の中だけにして欲しいものだが、どうやらママさんの「だって寒いんだもん」という意識の前には中も外もないらしい。 「はあ……。で、なんで買い物してんの?」 「なんだかねー、チョロ美のやつがゴハン作ってくれないのよ。帰ってからずっとヒンズースクワット。一人で。六百回も。なにあれ。信じられないわよ」 だから信じられないのは、そのコタツですれ違うご近所さんに「あらどーも、最近めっきり寒くなってー」と愛想を振りまいているママさんの方なのだが。 「なに、久美子《くみこ》さん機嫌悪いの?」 「悪いわよ、悪いってもんじゃないわよ。だって佐間太郎ちゃん、チョロ美ってば、六百回の後になにやったと思う?」 「な、なにしたの?」 「軽く]休みして、六百回追加」 ---------------------[End of Page 34]--------------------- 「2セットか12セットもスクワットやったのか!」 「おかげでママさんがコンビニ弁当を買うはめに。およよ。佐間太郎ちゃん、カルビ弁当でしょ?好きだったものね。おほほほ。あ、オコタが熱い……佐間太郎ちゃん、なんか無性にママさんのオコタが熱くなってる1見て1熱いの見て1(急に必死)」 家に帰ると(ママさんは当然放置)、テンコを部屋に寝かせてすぐに三畳ルームへと向かう。ドアを開けた瞬間、モワッとした湿気が彼を襲った。だが、その湿気すら甘い香りがするのだから、嬉しい。のか。いや、嬉しかないか。微妙だ。でも嫌じゃない。うん、そんなに嫌じゃない。 「はあはあ。あ、お帰りなさい……」 首からタオルをかけた久美子《くみニ》が、ベニヤの穴から顔を出す。汗で髪の毛が湿っているところを見ると、信じられないことだが、もうーセット追加したのだろう。 「いやその久美子さん、なにがあったか知らないけどさ、どうせテンコに……」 「大丈夫です1わかってます!それ以上は言わないでくださいっ1」 彼女はTシャツにショートパンツという姿で穴から出てくると、タオルで汗を拭《ぬぐ》って笑顔を作った。 「わたし、あきらめませんから。まだまだです、スタートラインです」 「そ、そうなの?なにがかわかんないけど」 「はい、そうなのです。それでわたし決めました。わたし魅力的な女の子になるんです」 ---------------------[End of Page 35]--------------------- ミリョクテキナオンナノコ? 佐間太郎にとって久美子は、十分魅力的な女性である。隣にテンコという暴れん坊がいるので、さらに魅力的に見えているというのもあるが。 「わたし、神山《かみやま》くんに好きになってもらうために、努力することにしたのです」 なんてことだ。これほどまでの美貌《びぽう》を持ちながらも、ポジティブに努力する少女。久美子はなんていいこなのだろう。 「で、博士になることにしました」 たとえ方向的に間違っていたとしても。 「博士?」 「はい、クイズ博士になるんです。クイズ博士になって、クイズ好きの神山くんの気を引いちゃおうって作戦なのです」 クイズ大会の予選に出るという嘘《うそ》が、いつの間にか佐間太郎はクイズ好きということになっている。噂《うわさ》というのは怖い。噂ではなく、ただ単に久美子の勘違いなのだが。 おそ起ざん 「だからわたし、問題の途中でピローン1って押して。『恐山』『ブブー、正解はチョコミントでした』『あーっ1そっちか!ひっかけか1』みたいな、あの時の悔しそうな顔の練習から、今、してますから!あー、そっちかi!ひっかけかー!」 彼女は言葉通りに、ものすごく悔しそうな顔を作って佐間太郎を見た.、どう?これ、だいぶクイズ研究会の部長っぽいでしょ?メガネの。的な顔である。そんな顔、嫌だ。 ---------------------[End of Page 36]--------------------- 「あの、俺《おれ》、別にクイズとか……」 「いいんです神山《かみやま》くん1今はいいのです1いつかわかる時がくるのです1それまではテンコさんと一緒にいてください、ドーンっ1」 ドーンて1そんな白々しい擬音と共に、佐間太郎《さまたろう》は部屋から追い出されてしまった。 となると、やはり気になるのはテンコである。ちゃんと眠っているのだろうか。嘘《うそ》カップルの嘘彼氏だとはいえ、やはり様子を見に行かねばならない。 「おい、テンコ。入るぞ」 彼はいつもとは違う気持ちで彼女の部屋のドアを開けた。すると、そこには、なぜか、手にオケとタオル、小さな石鹸《せつけん》を持ったテンコが立っていた。 「あれ?寝てたんじゃないの?」 「なに言ってるの、寝てないでしょー1カップルって言ったらヨコチョの風呂屋《ふろや》でしょ!一緒に銭湯に行くんでしょIH」 間違ってる。間違ってる上に、テンション高い。 「ほらほら、早く早く1早くしないとお風呂屋さんしまっちゃうよ1」 「わ、わかったよ……」 「あとこれマフラーね。これしていくんだからね」 そう言いながら、テンコはどこからか妙に長いマフラーを取り出す。 「なにこれ?もしかして二人で巻けってのかよ」 ---------------------[End of Page 37]--------------------- 「そ、そうよ1カップルって言ったら長めのマフラー1これをクリッとね!」 「お前、これ、いつ作ったんだよ!」 「さっき1」 「さっきって、ベッドに寝かせて戻ってくるまで五分も経《た》ってねえし1」 「頑張ったの!すっこい頑張ったの、マッハでー−・」 「すごい頑張っても、このマフラーの長さは無理だろ……」 「いいから早く準備してこいっ!石川《いしかわ》湯がいいのか?山の湯がいいのか?」 「どこでもいーっつの……」 カコーン。というわけで、神山家から少し離れた場所にあるエビス湯。 家を出てからも、やはりキュウタ少年は後をついてきていた。 「まったく、あれだけ熱心な子供ってのも珍しいよなあ、本当……」 佐間太郎は銭湯にくるのは初めてではなかったものの、慣れない温度に体を火照らしていた。思わず水を勝手に出し、お湯の温度を下げようと試みるものの。 「ダメだよ勝手にお水入れたら。店のおばちゃんに怒られちゃうよ?」 と、同じ湯船に入っていた、中年男性に叱《しか》られて断念した。 「なに、珍しいねえ、若いのに銭湯だなんて」 「はあ。ちょっと事情がありましてね」 ---------------------[End of Page 38]--------------------- 気さくに話しかけてくるおじさんというのは、どこにでもいるものである。佐間太郎《さまたろう》は少し戸惑《とまビ》いながらも、天然温泉が売りの湯船の中に肩まで浸《ノ》かった。 「あー、気持ちいい……」 「だろ?銭湯もいいもんだよね」 「そうですね……」 「だけどきみ、見れば見るほどうちの息子に似てるなあ」 「あはは。たぶん、俺らぐらいの世代って、みんな同じに見えると思いますから」 贅沢《ぜいたく》に溢《あふ》れて出るお湯を気にせず、おじさんも彼と同じように肩まで浸かる。 「そうかい?おじさんには、一人]人がちゃんと違う子に見えるよ」 「そうですか?」 「ああ、そうだよ。同じような格好してても、同じような洋服着てても、みんなちゃんと立派な男の子、女の子だからな。うん。、わかるよ、わかる。みんなそれぞれに違うことを考えて、それぞれに悩んで、笑って、そんで生きてるんだからな」 「……そうですね」 佐間太郎はボンヤリとキュウタのことを思い出す。子供だとひとくくりにしているけれど、それはきっとよくないことだ。彼は彼なりに、色々と思うところがあるのだろう。 「それにしても、実にそっくりだな、うちの息子に」 「そうですか?」 ---------------------[End of Page 39]--------------------- 持ってきたタオルを頭に乗せ、佐間太郎は天井を見上げる。立ち上る湯気が、テンコのそれのようだな、なんて思った。 「いやー、うちの息子ね、佐間太郎って言うんだけどね」 「ポコポコポコポコ……」 沈んだ。その言葉を聞いた瞬間、佐間太郎は湯船に沈んだ。 「あれ?どちたの?」 「ごぼごぼがぼがあぼやあ(どちたのじゃねーよ1)」 「あらま1なぜに佐間太郎PなぜにここにP」 目の前にいたのは、正真正銘神山《かみやま》佐間太郎の父親であり、世界を治める神様、パパさんであった。 「なぜにじゃねえし!声似てるから嫌な予感はしてたけども1なんで人間界にいんだよ!あれだろ、天国で仕事してんだろp”こっちには戻ってきてないんだろ19」 「あははは。バカだなあ佐間太郎は。だって天国の書斎、お風呂《ふろ》ついてないじゃない?だから、毎日ここきてるよ。顔なじみ。ちょ1顔なじみ」 「ちょーとか言うなよ!恥ずかしいなあーー”」 パパさんはそのままザバッと立ち上がると、うー─むと背伸びして彼に微笑《ほほえ》みかける。 「それじゃ、裸の付き合い、やりますか、な?」 「やんねーし。一人で勝手にやってくれ。俺はもう出るからな」 ---------------------[End of Page 40]--------------------- 「えPそうなの?もう、佐間太郎《さまたろう》ってば、反抗期なんだから!」 浴場から出て行く息子を、タオルと石鹸《せつけん》で作ったシャボン玉で送り出す父親。なんというか、メルヘンチックというか、アタマワルソーチックというか。 「あーあ、行っちゃった」 手早く着替えて銭湯を後にする息子を見ていると、笑いがこぼれてきてしまう。 あいつも人間らしくなったものだな、と。このまま人間の心の痛みや、いろいろなことがわかればいいのに。 「なになに、治《おさむ》ちゃん、あの子息子さん?立派なもんだねi」 治ちゃん。、つまりパパさんの人間名である神山《かみやま》治の名前を呼んだのは、この銭湯で知り合って仲良くなったゲンさんであった。いつも同じ時間帯に浸《つ》かっているのだ。 「おーう、ゲンさん。そうなんだよね、あれでも男の子だからね。立派なもんだよ。ゲンさんとこのカンちゃんは?」 「カンキチ?ありゃダメだよ、[ばっか達者でさ。もう一緒に風呂《ふろ》なんて入ってくれないね。背中流してくれたらどんだけ嬉しいかね……」 「まあね。時代だよ、ゲンさん」 「時代だね、治ちゃん……。で、それよりどう、これから一杯」 「おっ1いいね1いいね!わっはっはっは」 「わっはっはっは」 ---------------------[End of Page 41]--------------------- ミョウチキリンな笑い声を背に、不満丸出しの顔で佐間太郎は銭湯から出た。なにが天国に出張だ。毎日こっち来てんじゃねえか。だったらたまには家に顔出せっつーの。 「ごめん、待った?」 彼は先に出て待っていたテンコに向かって、不機嫌そうに手を挙げた。それを見た彼女は、弾《はじ》けるような笑顔で言う。 「もう、遅いよ、佐間《居、ま》っち1」 しまった。そうだ�キュウタがどっかで見てるんだった。彼は気を取り直して、嘘《うそ》カップルの続きを演じることに専念する。 「ごめんよ、テンちゃん。おや、かわいそうに、洗い髪が芯《しん》まで冷えて……」 銭湯の帰り道、なにを言えばいいかわからなかった佐間太郎は、入浴中にメメに心の声で聞いてみたのだった。すると彼女は、その手の言葉がベストだと即座に答えてくれた。 さすが神山家の頭脳、メメである。 「そうだよ佐間っちてば。一緒に出ようねって言ったのに」 「ごめんごめん。でも大丈夫だよ。どんなに冷えたって」 そう言って彼は、ほんの少しだけドキドキしながらテンコを抱きしめる。 「俺《おれ》が、お前のこと……温めるから、サ。いつだって、何度だって、サ」 「佐間っち─……。ヤクルトもらった?サービスだってよ?」 「げ。貰《もら》ってねえや。まあいいや、今度二本貰おう。よし、それじゃあ家まで競争だ。先 ---------------------[End of Page 42]--------------------- についた方が、愛情が深いってことさ!」 カップルごっこはどうしても背中がカユくなる。佐間太郎《さまたろう》は、なんだかんだと理由をつけてテンコから素早く離れると、そのままダッシュで家へと走った。 「なにそれえ〜!よおし、あたしが先に着いて、佐間《竜「ま》っちのことを愛してるってことを証明してやるんだから!」 「なに言ってんだ、俺《おれ》の方が、お前のこと、愛してるぞ!」 こうして二人は、温まったり冷たくなったり、ヤクルト飲んだり飲まなかったりで走るのだった。 で、正直走り過ぎた。 「ぜーぜーぜー。お腹痛い。なにこれ。神って身体的な痛みは感じないんじゃないの?」 「きっとそれ、ほら、精神的に無茶なことやったから……。って無茶ってなによ!もうー.だは、それにしても、本当、ちょっと今日は色々やりすぎてしんどくなった……」 例の公園にて、二人はうずくまっている。大変滑稽《こつけい》だ。もちろん銭湯からダッシュで追いかけてきたキュウタも、その様子を離れた場所から見守っている。 「でもさ、これであいつも信じたんじゃねえの?」 「なにが?」 佐間太郎はベンチにドカッと座ると、フゥと大きく息を吐いた。 ---------------------[End of Page 43]--------------------- 「これだけイチャイチャしてれば、カップルとして認定してくれただろ。あきらめてくれただろ」 テンコも隣に腰掛けつつ、チラッとキュウタの方を見る。 「そうね。デートしたし、ヨコチョのお風呂《ふろ》入ったし、ニックネームで呼び合ったしね」 「もしキュウタがあきらめたら、終わりだもんな」 「……うん、そうだね」 少しだけトーンを落としてテンコは返事をした。 嘘《うそ》のカップル。嘘のデート。それでも彼女にとっては、幸せな時間だったに違いない。 「まあ俺も、結構楽しかったぜ。なんだかんだ言ってさ」 佐間太郎はテンコの顔を見ずに、星空を眺《なが》めながら言った。彼女は言葉に詰まってしまい、彼とは反対に地面に視線を落としたまま答える。 「なに言ってんの。もう。ばか」 そんな、微ホンワカ(微炭酸みたいなものです)な空気を壊す者がいた。 「本当にバカだな、二人して」 今まで陰に隠れて行動していた、キュウタである。彼は二人の前に堂々と姿を現し、鼻を指でこすって言った。 「無理してんの、ばればれ」 『がびーん1』 ---------------------[End of Page 44]--------------------- 偽《にせ》カップル、小学生に最初から見破られてて、同時に悲鳴を上げる。 「な、な、なに言ってんのよキュウタくん。あたしと佐間《曼、ま》っちは、本物の恋人よ?」 「そうだよ。テンちゃんとはね、もうそりゃ長い付き合いでね」 「そ、そうなのよ。大人だから休憩とかもしちゃうんだからね1」 「きゅっP休憩p”休憩すんの?」 「え?だって大人はするって……」 「そ、そうだぜ1休憩もしちゃうんだぜ1あは、ははは、はは」 キュウタ少年は擦《す》り切れたパーカーのポケットに腕をグイッと突っ込み、真剣な顔で言う。 「じゃあさ、ここでキスしてみなよ。恋人なら、キスして」 キス。 「あ、もちろん口にね」 口に。 ヒュオオオオオ。夜風が不意に二人を包む。まさか、そんなトンデモリクエストがやってこようとは。 「あはは、佐間っちとあたしは、いっつもチュ!してるから、今しなくても……。ね、佐間っち?」 「えPあ、うん、いつもしてるから、わざわざ今しなくてもなあ」 ---------------------[End of Page 45]--------------------- 「いつもしてるんなら、今、ここで、してみなよ」 ヒュオオオオ。小学生、かなり真剣。誤魔化《ごまか》せる可能性、ゼロパー質 「よし、テンちゃん、キスだ」 「ええええええええええつP”」 突然ガスッと肩を掴《つか》んだ佐間太郎《さまたろう》に、テンコは悲鳴に近い声を上げた。この時点でカップルじゃないのはバレバレなのだが、いいのだろうか。 『大丈夫だよ、キスする振りだけすればいいんだし。落ち着いて乗り切れ、な?』 彼からテレパシーが届いてくる。胸の奥まで声が届いてしまうみたいで、テンコは恥ずかしくなった。 大丈夫?あたしの気持ちは見られたりしてないよね? 『わ、わかった。でもその、佐間太郎。あのね』 『う、うん。なに?』 『あたしとキスするのって、やっぱり嫌?』 「ええええええええええ!」 思わず悲鳴を上げる佐間太郎。だから、その時点でってば。 『嫌とかじゃないけどさ』 『だったら、振りだけしてバレるんだったら、本当にしてもいいんだよ』 『へ?』 ---------------------[End of Page 46]--------------------- 『キュウタくんの気持ちが真剣なのはわかった。もう中途半端なお芝居してもダメだよ。 だから、キス、しょ?』 キス、しよ? いいのだろうか。していいのか。本当にしていいのか。チラッと横目で見ると、キュウタがニヤニヤとこっちを見ている。まるでいつかの進一《しんいち》のようだ。こんな風に、誰《だれ》かの視線によって、自分の思っていることができなくなってしまうんだ。 はっきり言おう。キス、したい。そりゃしたい。 ほお目の前で小さく震えているテンコはかわいい。目が潤《ロつる》んでる。なんで潤むのよ、本当に。 頬も赤く染まっている。なんで染まるのよ、だからさ。 『さまたろお……』 彼女はそう言って目を閉じた。もう心の声だか本当の声だかわからない。 こりゃもう、ヒャクパーキスできる。 そうだ、キュウタがいてもいなくても関係ない。キスしたければするんだ。 俺《おれ》はテンコとキスするんだ。 でも。 いや、待てよ。もしキュウタがいなかったら?こんな夜中に二人きりで外にいることなんてないし。キスしようなんてなるわけない。これは、自分の意思じゃない。キュウタの意思なんだ。ここでキスをしても、自分で決めてキスしたことにはならないんじゃない ---------------------[End of Page 47]--------------------- か。 『どしたの、さまたろお……』 不安そうな声でテンコは眩《つぶや》く。どうしてこんな時に、甘い声を出すんだよ。不安そうなのに、なんでそんなにかわいいんだよ。 夜風で乾いた髪が、しっとりとなびいている。さっきの銭湯で使った、いつもと違うシャンプーの香り。いつもと違うテンコの香り。 「よし、決めた」 佐間太郎《さまたろう》はそう言って、決心を固めた。彼女も彼の声を聞いて、身をキュッと縮ませる。 「いいか、テンコ、よく聞け」 「う、うん……」 「キスはできない。なぜなら今の俺とお前は恋人じゃないからだ。だから、キスはできない」 少女の瞳《ひとみ》から、生気がスッと抜けるのがわかった。うん、仕方ないんだ。こうするしかない。今自分からキスしても、それは本当のキスなんかじゃない。本当のキスは、自分がしたい時にする。だから、今は、キス、できない。 「ばか」 小さくテンコが言う。わかっていた。きっと、そうなるだろうなと。 「さまたろおのばか」 ---------------------[End of Page 48]--------------------- わかってる。でも違うんだよ。本当の気持ちは今は恥ずかしくて言えないけれど、きっと、きっといつか……。 「あたしだけヤクルト飲んだのがそんなに憎いかあああああああああ!」 ザ・見当違い。 「そしてあたしとキスするのが、そんなに嫌なのかああああ1佐間太郎《さまたろう》のお、ぶわっくうわあああああううう11こ オケとタオルと石鹸《せつけん》と。あとなんだろう。とにかく、持ってるものの全《すべ》てが彼の顔面にぶつかった。佐間太郎はゆっくりと地面に崩れ落ちる。いたい。 「はっはっは。どうだ、これでテンコは俺《おれ》のものだな!」 嘲笑《ちようしよう》しながら近寄ってくるキュウタだったが、テンコの目を見てビクッと震えた。 「キュウタもバカ1佐間太郎もバカ!二人そろってバカ男1んぎゃi!」 泣いてんだかなんなんだか、彼女はわめきながら家へと走って行った。あんなテンコを見たのは初めてだ。キュウタ少年は呆然《ぼうぜん》として眩《つぶや》く。 「テンコがあんなに感情的になるなんて、知らなかった」 はは、まあな。 「俺と一緒にいる時は、いつも笑ってたのに……」 そうだな。 「佐間太郎」 ---------------------[End of Page 49]--------------------- なんだよ。 「テンコ、俺に対して、あそこまで本気になることなんてなかったのにさ。きっとあいつ、本当にお前のこと……」 うるせー。うるせーよ、本当に。まったくもう。 早朝の神山《かみやま》家、キッチン。玄関に置いてあるポリタンクから、おしょう油チュルチュル(例のあれです)を使って、久美子《くみこ》は石油をストーブのタンクに給油した。重くなったタンクを「うんしょ」と運び、石油ストーブにセットする。コポコポという音を聞きながら、タンクから石油が移動するのを少しだけ待って、電源スイッチを入れた。といっても、すぐには温かくはならない。彼女はストーブの前に座って、温風が出てくるのを今か今かと待っている。 「はあ、どうせ今日はテンコさんが神山くんの朝食作るんですよね。だって付き合っているのですものね。だからわたしはストーブ係なのです。そして、練習問題係でもあるのです。はあ、こうして振り向けばキッチンに立つテンコさんの姿が……っていないっ1」 久美子、早朝のキッチンで、驚《きよう》・愕《がく》1 「なぜっ。昨日は、あれほどウキウキルンルンだったのに、どうしてゴハンをPはっ、もしやテンコさんの部屋で神山くんとイチャイチャPきゃ」1いけません、まだ高校生なのだし、それはいけませんーっ!」 ---------------------[End of Page 50]--------------------- ダダダダダ。ガタン。ドバン。 「テンコさん!そういうことはいけませんよ……って、いないーー・」 久美子《くみこ》、早朝のテンコ部屋で、衝・撃! 「テンコなら、朝練あるからって、さっき出て行ったよ……」 パジャマ姿のメメが目をこすりながら彼女に訴えかけてくる。きっとトイレにでも行こうとしたのだろう。足取りがフラフラとしている。 「朝練って、部活入ってないのに……。それより、まだ、五時なのに?」 「うん。ゆってたから。うん。むにゃ」 「あわわわ、トイレこっち、トイレこっち」 あたふたしながらも、久美子は階下のトイレにまでメメを連れて行き、用が済むと部屋まで送っていった。 「こごこ、これはなにか大変なことが起こっているのでしょうか……」 うーん、と頭を抱えていると、今度は佐間太郎《さまたろう》が現れた。既に制服に着替えており、もう学校に向かおうとしている。 「あれ?神山《かみやま》くん、今朝はずいぶん早いですね」 「うん。朝練あるから……」 なんの朝練1そう思いつつも、彼女は笑顔で佐間太郎を見送る。やはり、なにかとんでもないことが起こっているのではないだろうか。というか、もう意味がわからない。付 ---------------------[End of Page 51]--------------------- き合ったり付き合わなかったりプロポーズしたりケンカになったり。原因究明をしなければ、久美子の気持ちも治まらないではないか。 とは言いつつも、このまま彼を追っていくわけにはいかない。なにしろ、テンコがいないということは、ゴハンの準備は久美子がやらなくてはならないのだ。神山家に居候《いそうろう》している以上は、食事の支度《したく》ぐらいやらなければならない。 「ひーん、なにが起こってるのか知りたいよお……」 えぐえぐと泣きながら、彼女はとりあえずお米を研ぐのであった。 人気《ひとけ》のない住宅地は、薄い雲の中にいるみたいだった。コートの下に、もう一枚シャツを着ればよかったと後悔するほど気温が低い。少し離れた場所から、なにか悪いことが近ついてくるような寒気《さむけ》がした。冬の朝、水溜りに張っている氷。もしかしたら、あれは悪意の足跡のようなものかもしれない。 そろそろ人々が起きはじめるであろう時間に、佐間太郎は行くあてもなくトボトボと町内を歩き回る。学校に行っても仕方ないし、お店も開いていない。ファミレスに一人で行くってのもなんだし、ファーストフードは味気ない。かといってこのまま歩き続けては凍《こご》えてしまう。 睡眠時間は足りていないはずなのに、なぜだか妙に目はさえている。首元をすくう風が、体の温度をそっと下げた。 ---------------------[End of Page 52]--------------------- 「あの、きみ」 くろい影が、佐間太郎にそっと重なった。朝の風景には似合わない、サングラスの男。 まえにどこかで出会っただろうか?いや、記憶にない。 ガリガリに痩《や》せた長身、黒いスーツに黒い靴。唯一のアクセントは、赤のネクタイ。 くちびるは薄く、肌は透けるように白い。よく見れば、細い指先に真っ赤な指輪。 ルビーだ。佐間太郎《さまたろう》は、背中に寒気《さむけ》が走るのを感じた。 「よろしいですか?少し、お時間をいただいても」 強要はしていないが、言葉に強さがあった。有無を言わさぬ強さである。 「は、はい。なんですか?」 男は佐間太郎よりも年上、二十代の前半だろうか。深い井戸の底のような色をしたコートを手に持っている。 「この街では、ずいぶんと若者は早起きなんですね」 「別にそんなことないですけど」 なんだか嫌な予感がする。グチャグチャに混ざった絵の具が、胸の中でゆっくりと広がっていくようだ。 「さっき、公園のブランコにも女の子がいましたよ。寂しそうだったな」 テンコのことだ。すぐに佐間太郎はわかった。が、わかったところで昨日の今日である。 心の声を送ろうとしても、なんと言っていいかわからない。 ---------------------[End of Page 53]--------------------- 「なにか用ですか?」 男は次第に明るくなっていく空を仰ぎ、サングラスのブリッジを指で押し上げる。 「この街で悪魔が生まれるかもしれませんね」 「えー7」 唐突な一言に、佐間太郎は声を上げてしまった。しかし、悪魔や天使、そして神様のことなど一般人にはわからないはずだ。それを、どうして彼は知っているのだろうか。いや、単なるデタラメかもしれない。佐間太郎はわざとらしい作り笑いを浮かべると、頭の後ろをポリポリとかいた。 「あはは。なに言ってんすか。悪魔なんているわけないじゃないですか」 できる限りトボけてみたつもりだが、男は笑わなかった。笑わないどころではない、この男には表情がないではないか。サングラスの奥に隠れた瞳《ひとみ》は見えないし、口元はずっと静止画のようにピクリともしない。 「悪魔は存在します。悪魔は憎しみの中に存在します。悪魔は悲しみをかぎつけてやってくるんです。そして、痛みを、辛《つら》さを吸い込んで赤く染まっていく」 佐間太郎は、トボけるのをやめて真面目《ましめ》な顔を作った。 「あんた、何者だよ?」 「わかりますよね?あなたなら……?」 「わかんない」 ---------------------[End of Page 54]--------------------- 「そのうちわかります」 気味が悪くなった佐間太郎《さまたろう》は、男を置いてさっさとこの場を去ることにした。 「あ、その前にさ、あんたの名前……」 しかし、どうにも心にひっかかって、佐間太郎は彼の名前を聞こうとして振り返る。 「なあ……。あれ?」 男の姿はなかった。 世界の様子を窺《うかが》いに顔を出した太陽は、お昼の三時というオヤツ的な時間を受けてゆっくりと傾《かたむ》き続ける。 午後の授業を受けながらも、久美子《くみこ》の視線は机に顔を伏せて寝ている佐間太郎とテンコに向かっていた。 昨日といい今日といい、まったくどうなっているのかわからない。もっとわからないのが、進一《しんいち》が愛《あい》と「ビビビビ、久しぶりのビッグ進一ニュース!佐間太郎とテンコが、付き合ってます1深夜のヨコチョの風呂屋《ふろや》1これ激ヤバ1」と騒いでいたことだ。 昨日は久美子だけが知っていた情報だったが、ついに公《おおやけ》のものとなったのだと彼女は思った。だが、授業中の二人を見ていると到底そうは見えない。視線が合えば無言で逸《そ》らし、休み時間は別行動。授業中はお互いの存在を無視するようにして眠り続けている。 まったく、こんな調子でクイズ大会は大丈夫なのだろうか。っていうか予選は突破した ---------------------[End of Page 55]--------------------- のだろうか。本選はいつなのだろうか。そもそも二人は結局付き合ってるのかしら。あの小学生は誰《だれ》なのかしら。海の水はどうしてしょっぱいの。そんな、疑問でいっぱいの久美子なのであった。 ただ、そんな久美子にもわかることがあった。 もしかして、もしかして、あの二人はお互いに少しずつ気持ちが離れていってしまっているのではないか。 テンコも佐間太郎も、ひどく傷ついている。 気持ちが溢《あふ》れそうになっているけれど、それをどうしたらいいかわからない。 久美子にはそれが痛いほどわかった。なぜなら、彼女だって似たようなものなのだ。 「はあ……なんでダメなんだろうなあ」 キュウタ少年は、菊本《きくもシ一》高校の近くの公園でブランコを揺らしていた。下校の時間ということもあり、公園の前の道路を菊高の生徒たちが歩いていく。 「お兄ちゃん。どうしたの?かなしい?」 少年の妹のノゾミが、砂遊びで汚《よご》れた顔で言った。兄の威厳《いげん》を保ちたかったのか、彼は子供らしくない笑顔を作って応える。 「テンコでしょ?テンコがお兄ちゃんを悲しくさせるんでしょう?」 ノゾミはそう言って、首を小さく傾《かし》げた。大きな瞳《ひとみ》は、あまり瞬《まぱた》きをしない。 ---------------------[End of Page 56]--------------------- 「違うよ。悪いのは俺《おれ》なんだ。俺が大人になれないからさ」 「テンコが、いじめるの?だったら、ノゾミが、やっつけるよ」 彼女の言葉を聞いて、キュウタは慌《あわ》てて首を横に振る。 「違う、違うってば。だから、やっつけるとか物騒なこと言わないでくれよ」 「ぶっそー?」 「なんでもない。でもお前、そんなこと前は言わなかっただろ?どうかしたか?」 「どうもしてないよお?」 無邪気に笑うノゾミ。確かに、なにも隠し事はしていないようだ。 「あれ?お前、白い服着てなかったか?」 「え?あ、う?」 彼女は自分のワンピースを見た。ただの白だったワンピースが、オレンジを一滴だけしぼったような色になっている。 「お前、着替えたか?」 「ううん。ノゾミ、着替えてない」 「そうだよな……。まあいいや、よし、砂場で遊んでこいっ」 「うん!すなっ1すなっ1」 彼女が砂場に走って行く姿を見て、キュウタは自然な笑顔を浮かべた。 「どうしたんですか、男の子」 ---------------------[End of Page 57]--------------------- ブランコに乗っていたキュウタに、影が差した。見上げると、そこには知らない男性が立っている。年は彼よりもずっと上。黒いスーツに、オールバックの髪。ネクタイだけが血を連想させるような赤をしていた。 「お前、誰《だれ》だよ?」 キュウタは突如として現れた見知らぬ大人に体を硬くする。 「ずいぶん悩んでるみたいですね。僕でよければ相談に乗りますが?」 彼は少年の隣のブランコに座ると、ゆっくりと地面を蹴《け》り揺れ始めた。顔色はどこまでも悪く、死体が動いているようにも見える。 「お前に頼らなくても俺《おれ》は大丈夫だから」 「そうですか。残念ですね。きっときみは大人になりたいって思ってるのかなって、そう思ったんですけどね。僕ならなんとかしてあげられるかもしれない」 キュウタの眉《まゆ》がピクッと反応する。彼の悩み、ズバリ、だ。どうして男はそれがわかったのだろうか。いや、それだけで信用してはいけない。きっと当てずっぽうに違いない。 人の悩み事なんて、恋と金と仕事と人間関係、そして子供は大人に憧《あこが》れ、大人は子供を羨《うらや》む。それぐらいしかないのだ。そのうちのどれかを言えば、誰だって反応する。 「いいから放《ほう》っておいてくれ。俺は一人でやっていける」 「そうですか?残念ですね。あなた、学校でイジめられてたでしょう?親がいないからといって、たったそれだけの理由で」 ---------------------[End of Page 58]--------------------- 「うるさいな。俺《おれ》は大人だから関係ない」 「毎日苦しいんじゃないですか?一人ぼっちで過ごして。どこにも居場所がないんでしょう?あなたは、家族を求めているんでしょう?そのために……」 「うるさい1俺《おれ》は一人でも、やれる。全《すべ》てを取り戻せるってことを証明してやるんだ」 「わかりました。それでは、どうしても僕に助けて欲しい時は遠慮なくおっしゃってくださいね。僕の名前は」 男は一呼吸置いてから、冷たい声で言った。 「相原《あいはら》」 「っだよもう、なんなんだよ1」 こちらは少々荒れ気味の佐間太郎《さまたろう》である。いつもはテンコと一緒に帰る彼だが、今日は一人ぼっちでの下校だ。授業が終わると、彼女は久美子《くみこ》と進一《しんいち》の手を強引に掴《つか》み、さっさと教室から出て行ってしまった。 「なんなんだ、なんなんだ、なんなんだよ……まったく」 これではまるで、佐間太郎が悪者みたいである。実際はそうではない。彼なりに考えた末の行動のはずだ。しかし、テンコにとってはそんなことは関係ないらしい。キスを拒否された、という事実だけが心に暗雲を漂わせている。 ---------------------[End of Page 59]--------------------- 佐間太郎が昇降口でローファーを取り出そうとすると、中から手紙がテロッと落ちてきた。ラブレターだろうか。いや、ないな(瞬時に)。ひとまず拾うと、そこには拙《つたな》い文字でこんな言葉が綴《つづ》られていた。 「はたしじょう」 神山《かみやま》佐間太郎どもへ 今日の夜、七時。おまえんちの近くのツバキ公園にて待つ。 そこで一対一のけっとうをするのだ。もしおれが勝ったらテンコはもらう。 ゆるさないぜ。サンキュウ。 キュウタロウ まず彼は思った。「佐間太郎どもへ」って、「ども」は違うだろ。俺は複数なのか。小学生ならではか。ちょっと迫力を出そうとした結果が、この妙な間違いなのか。そして、「サンキュウ」もわからない。大人ぶろうとして英語を使ったものの、唯一知っていたのが感謝を表す言葉だったのだろうか。 ---------------------[End of Page 60]--------------------- そして最後に。あいつ、本名はキュウタロウって言うのか……。すごくどうでもいいことだけど、なんか、へー、そうなんだーっと感じる佐間太郎《さまたろう》なのであった。 ツバキ公園に行くと、仏頂面《ぶつちようづら》で立っているキュウタと、一人でシーソーに乗って遊んでいるノゾミがいた。ノゾミは佐間太郎を見ると笑顔を作って手を振ったが、キュウタが余りにも真剣な顔をしていたので手を振り返すことはできなかった。 「よく逃げないでやってきたな。それだけはほめてやろう」 キュウタ少年は鼻の頭を指の先でこすると、あらん限りの力を使って佐間太郎を睨《にら》みつける。しかし、まったく迫力がない。所詮《しよせん》小学生である。いや、これは決して小学生差別ではない。世の中には、鬼さえ逃げ出すほどの眼力を持った小学生だっているであろう。 だが、このキュウタ少年に限っては、そんな力などこれっぽっちもなかったのだ。 お母さんが「お年玉はお母さん銀行が預かっておくからね。大人になったら自由に使っていいからね」と言ったものの、大人になって「あのお金は?」と聞いた時のお母さんの「ないよ」という返事ぐらい、これっぽっちもなかったのだ! 「で、勝負ってなにをするつもりだよ?」 佐間太郎が聞くと、彼はフンッと鼻を鳴らして答えた。それを真似《まね》てノゾミも、シーソーの上で一人鼻を鳴らす。 「決まってるだろう?これはお前と俺《おれ》との真剣勝負だ。テンコを賭《か》けた、男と男の戦い ---------------------[End of Page 61]--------------------- だ!」 テンコよ、勝手に賭けられてしまっていいのだろうか。 「望むところだ1」 佐間太郎よ、そんなアッサリと答えていいのか。 「ふふふ、余裕な顔していられるのも今のうちだぞ、佐間太郎」 「なんだと、それはどういうことだ」 「俺はな、佐間太郎。俺はな……フフフフ」 キュウタ少年は唇をいびつに曲げてニヤッと笑った。なにか、秘策でもあるのだろうか。 普通に考えたら、小学生と高校生である。勝負は決まっているのだ。それでもなお、真正面から戦いを挑むということは、彼には隠された能力が1 「俺はいつだって一生懸命だぞ1」 なかった。隠された能力も秘策もなかった。清《すがすが》々しいほどに。 「いくそ佐間太郎!覚悟しろっ!」 キュウタはその場から飛ぶようにして駆け出した。一直線に佐間太郎へと向かい、右手を力いっぱい握り締める。そう、ゲンコツである。グーでパンチである。本当に秘策もなにもなかった。ただのケンカであった。 「くらえっ、佐間太郎っ!」 見えない階段を駆け上がるようにして、彼は空中を舞った。二人の動きはスローモーシ ---------------------[End of Page 62]--------------------- ヨンで展開され(てるイメージで)、少年は佐間太郎《さまたろう》へとゆっくり接近する。 「えいっ」 が、佐間太郎が持っていたカバンで頭を叩《たた》くと、少年はそのまま地面へと落下した。 「いだっ1」 普通の悲鳴である。なんの工夫もない、普通の。たぶん、痛かったのだ。本当に。 「いででで、いだいっ!ちくしょう、佐間太郎、よくも!」 「いや、普通に考えたらこうなるだろ。いいか、ガキンチョ。これに懲《こ》りたらもうテンコに付きまとうなよな」 彼はそう言うと、振り返ってその場から立ち去ろうとした。しかし、キュウタ少年はその後ろ姿に向かってがむしゃらに突進する。 「うおおおおお!佐間太郎おおおお!」 「えいっ」 振り向きざまにカバンで彼の頭を引っぱたく佐間太郎。少年はまたもや、至って普通の悲鳴を上げる。 「いだっ!」 「痛いだろ?だからやめとけってば。こんなの意味ないんだから。な?」 「うるさいっ1意味のないことなんてないっ!」 少年はすでに涙目になっていた。いやこれ、小学生相手にちょっとやりすぎたかなと佐 ---------------------[End of Page 63]--------------------- 間太郎は思ったが、それでも彼は突進してくる。 「だから危ないってんだろ!」 今度はカバンを使って叩くことはせずに、体を傾《かたむ》けてタックルを避《よ》けた。目を瞑《つむ》って突進していた少年は、バランスを崩して頭から地面に突っ伏す。 「くっそう……くそうくそう……」 砂煙の中で、キュウタは膝《ひざ》に血を滲《にじ》ませながら立ち上がる。 「まだだ、まだだぞ佐間太郎1」 「いや、やめておけってば。絶対無理だってば1身長とか違うし!」 「うるさい1逃げるなら俺《おれ》の勝ちだ!そうじゃなかったら勝負を続けろ1」 佐間太郎は、その時のキュウタの目を見て驚いた。なぜなら、彼はどこまでも真剣だったからだ。体格差を考えても、どうしたって勝てるわけがない。それなのに、この勝負に対して、彼は冗談などではなく本気で挑んでいた。 佐間太郎は彼を見て、心が痛んだ。 自分はもっと、この少年にきちんと向き合ってやらなくてはならないのではないだろうか。彼は真剣なのだ。だとしたら、子供相手だからといって手加減をするのは失礼なのではないか。でも、本気で殴っていいものか。いや、やっぱよくないよなあ。 「佐間太郎、よく聞けよ。まだ俺とテンコによる恋愛のププローグは始まったばかりだぜ」 「……ん?」 ---------------------[End of Page 64]--------------------- 佐間太郎《さまたろう》、よく聞いたものの意味がわからない。 「ププローグってなんだつ・」 「ふんっ。大人のくせにそんなことも知らないのかよ」 キュウタは人差し指の腹を佐間太郎に向け、得意げに言った。 「ププローグって言うのは、序章のことだ1これから始まりますって意味なんだぜっーー・」 ピカーン。キュウタに専属の照明さんがついていたら、このタイミングで背後から彼にライトを浴びせていたであろう。それぐらいにキマっていた。ポーズは完壁《かんべき》でした。 しかし、佐間太郎はまだ「おや?」という顔をしたままである。物分りの悪い彼に、キュウタは続けた。 「ちなみに、ピピローグってのもあるぜ。これは終わりって意味の……」 「それって、プロローグとエピローグのことか?」 「ガーンH」 恥ずかしかった。ものすごく得意げに説明しただけに、この突っ込みは底抜けに恥ずかしかった。キュウタはそのままパクパクと口を何度か動かした後に、よくジェスチャーゲームでやる「置いといて……」の動作をすると、サッと表情を変えてシリアスに叫《さけ》ぶ。 「俺《おれ》はテンコが好きだ1俺にはテンコが必要なんだ1俺には嫁が必要なんだ!」 なかったことにしたのだ1かなり恥ずかしい間違いを、なかったことに! 相手は小学生である、さすがにこれ以上突っ込むことはやめて、佐間太郎は話を進める ---------------------[End of Page 65]--------------------- ことにした。 「なんでテンコなんだよ。どうして他《ほか》の女の子じゃダメなんだ?」 「それはこっちのセリフだ」 彼の心を見透かしたようにキュウタは言った。 「どうしてテンコを俺に譲ってくれないんだ?お前はそんなにテンコのことが好きなのか?本気じゃないなら、お前があきらめろ!」 「な、なにを言ってんだよ。そんなのお前に関係ないだろ」 痛いところを突かれ、彼は視線を逸《そ》らす。だが、キュウタはそれを見逃さなかった。 「俺が子供だと思って誤魔化《ごまか》すな1お前は本当にテンコのことが好きなのかp”」 「そ、それは……」 「好きじゃないなら俺にくれっ!」 不意をついて、キュウタは佐間太郎に体当たりをしかけてきた。油断していた彼は、そのまま少年と一緒に地面の上に倒れこむ。砂の味と、キュウタの汗の香りがした。 彼は、本気で佐間太郎と勝負をしていた。目を真っ赤に充血させて、鼻の頭に汗の玉を浮かべ、擦《す》り傷だらけになって。 「好きじゃないなら俺にテンコをくれ!お願いだから、テンコを俺の嫁にしてくれ1」 佐間太郎は、起き上がることができなかった。少年は、彼に折り重なるようにしながら泣き出したからだ。今までずっと虚勢を張っていた彼の目から、ボロボロと涙のかたまり ---------------------[End of Page 66]--------------------- が落ち出した。それは切実な涙だった.、 「俺《おれ》にくれ1テンコを、俺にくれよ、お前がテンコのこと好きじゃないなら、俺にくれよ!俺にはテンコが必要なんだ!どうしても必要なんだ1」 泣きながらキュウタは叫《さけ》び続けた。きっと、なにか理由があるのだろう。そうじゃなければ、こんなにも強い意思を感じることはできない。テンコに対しての恋愛感情の他《ほか》に、特別な事情が。 「なあ、キュウタ」 そっと、シャボン玉に触れるような口調で、佐間太郎《さまたろう》は言った。 「お前、テンコのことがそんなに必要なのか?」 のどの奥から言葉を絞りだすキュウタ。 「必要だ」 彼は佐間太郎の瞳《ひとみ》を真正面から見つめる。もう、泣いてはいなかった。子供の顔ではない、男の顔をしていた。 「あのな、キュウタ」 男として、佐間太郎は答える。 「俺にもテンコが必要なんだ。だからお前にやるわけにはいかない」 ハッキリと、彼は言葉にして伝えた。その言葉は波紋のようにして公園に広がり、シーソーに乗っていたノゾミの肩を震わせる。 ---------------------[End of Page 67]--------------------- 「う、ううう、うううううう」 彼女は辛《つら》そうに顔をゆがめた。佐間太郎には最初、それがなんなのかわからなかったが、しばらくして泣こうとしていることがわかった。少女はそれほど顔を崩して、大胆な泣き顔を作ったのだ。まるで別入のようだった。 「どうしたんだP」 キュウタはそれを見て、佐間太郎から離れる。体を斜めにして走りながら、倒れ込むようにノゾミへと走った。 「泣くな!大丈夫だから、泣くな1」 「わあああああああああああああああんん!お兄ちゃんがあああああ1」 キュウタの説得もむなしく、少女は泣き出した。それと同時に、佐間太郎の背後でミシミシミシッという妙な音が聞こえる。 「あ?な、なんだ?」 振り返ると、公園に立っていた木が彼に向かって倒れてきているところだった。 「おわああああP木Pイキナリー9こ なんの前触れもなく、樹木が倒れてきたのだ。そんな経験、あるだろうか。いや、ない。 親友にキコリがいて、よく一緒に山に行くのならばあるかもしれないが、普通はない.、佐間太郎は、この衝撃映像自然の恐怖に怯《おび》えながら、必死で飛びのいた。その一瞬後に、木は地面に大きな音を立てて倒れる。 ---------------------[End of Page 68]--------------------- 「なんだ17”なぜ木がPキコリもいないのに!」 砂煙と落ち葉が舞い散る中で、佐間太郎《さまたろう》は叫《さけ》んだ。そりゃ叫ぶさ。いきなり木だもの。 だがしかし、それだけでは終わらない。プップー、という妙に軽快なクラクションが聞こえたかと思うと、公園の中に一台のオートバイが突っ込んできた。 「あぶねえあぶねえ1どいてくれ、どいてくれってんだ1」 それは、古い漫画の中ではお馴染《なじ》みの光景であった。捻《ねじ》りハチマキに白衣を着た青年が、カブと呼ばれるバイクに乗っていたのだ。さらに彼の手には、いかにも「寿司《すし》屋の出前の最中でございます」と思われる寿司桶《すしおけ》を持っていた。片手運転である、非常に危険だ。 「うわああ、カンちゃんH」 「おおっ、神山《かみやま》さんとこの1まいどっ!」 そう言って寿司屋のカンちゃんは、ハンドルを握っている方の手をサッと挙げた。ちなみにカンちゃん、ちょっとアゴが出てる。 「うあああ1危ないってば!危ない1」 片手運転をしていたのに、その片手を挙げてしまったのである。当然、コントロールができなくなる。 「あわわわわ!ど、どいてくんなっーー”」 ゴリゴリッ、ゴーン!嫌な音が公園に響いた。カブは佐間太郎に激突したものの、倒れることなくそのまま公園から走り去った。 ---------------------[End of Page 69]--------------------- 「ごめんよ!今度、オマケすっからな!」 ブブブブブブブ、という振動音を上げながら彼方《かなた》へと消え去るカブ。公園に残ったのは、顔にタイヤ跡をつけた佐間太郎である。 「な、なんなんだ!なんでイキナリ木が倒れてカンちゃんにひかれて、次はなんだってんだ19口」 次は競歩の選手であった。 「なー9」 砂煙を上げて、競歩の選手が五十人ほど、キビキビキビッと早歩きで佐間太郎へと向かってきたのだ。 「なんで競歩の選手がP公園をp」 慌《あわ》てて辺りを見ると、「競歩のコースこちら」という看板が地面に転がっていた。きっと、カンちゃんがカブに看板をひっかけて、道路から引きずってきてしまったのだろう。 こりゃカンちゃん、ウッカリだ買 「みなさん1こっちはコースじゃありませんよ!公園で競技はいけませんよー!憩《いこ》いの場だから1ここは憩いの!」 そんな叫び声もむなしく、早歩きの無表情集団はズンズンと彼に向かってやってくる。 「うわああ、競歩の集団って怖い!真正面から見ると怖い1」 ああ、哀《あわ》れなことです。佐間太郎は、競歩の集団に突進され、押し倒され、踏まれ、給 ---------------------[End of Page 70]--------------------- 水所の場所を聞かれ(知らない)ボロボロになるのでした。 遠ざかる足音(ゴキゲンな早歩きなのが、無性にムカつく)の震動を地面から感じながら、佐間太郎《さまたろう》は次にやってくるアクシデントを待った.)もー、なんかしらないけど、イキナリの衝撃映像百連発である。なんなのだ。きっと、まだ終わらないだろう。まだ続いてもおかしくない。 「くそう、来るなら来いっ。今度はなんだP」 地面に突っ伏しながら周囲に注意を払うが、変わった様子はない。 「ふ、ふふふ。終わったみたいだな。なんだか全然わかんないけど」 さっきまでなにをしていたか完全に忘れつつ、彼は立ち上がる。そうだ、さっきまで小学生と真顔で決闘をしていたのだ。さっきは熱くなっていたからよかったが、落ち着いて考えるとなんて恥ずかしいことをしていたのだろう。ちょっと頬《ほお》を赤くそめつつ、服についた泥を払った。 「おい、佐間太郎」 目の前では、膨《ふく》れっ面《つら》のキュウタが彼を睨《にら》んでいる。まだ気が済まないのだろうか。ノゾミはいつの間《ま》にか泣き止んでおり、キャッキャと騒ぎながらブランコを漕《こ》いでいる。 キャッキャじゃないっつーの。こっちはキコリにカンちゃんに競歩に大変だったんだから。キコリはいないけど。 「佐間太郎、うちにきてくれ」 ---------------------[End of Page 71]--------------------- 「うち?うちって、うち19”どうしたんだよ、急に」 「いいからきてくれ」 キュウタは真面目《まじめ》な顔をしたまま、さっさと歩き出してしまった。佐間太郎はなにがなんだかわからないまま、彼の後をついていく。ノゾミはそんな二人を見て、慌《あわ》ててプランコから飛び降りた。キコリも、カンちゃんも、競歩も嘘《うそ》みたいに公園は静まり返っていた。 いや、だからキコリは最初からいないけど。も。 チーン。 キュウタの家は、閑静な住宅地にある一戸建てだった。だが、電気は全《すヘ》て消えており、生活の香りがしない。まるである時を境に、住人がどこかに姿を消してしまったようである。キュウタは首から下げていた鍵《かぎ》を差し込むと、自分でドアを開けて中に入った。 「ただいま」 少年の声は闇《やみ》に吸い込まれる。返事はない。佐間太郎も「おじゃまします」と一声言ってから上がった。 まるで呼吸をすることをやめてしまったような家だった。音が一切しなかった。冷蔵庫のモ!ター音、蛍光灯の小さなジリジリ、テレビも、ラジオも、人間の声も。 そんな中で唯一聞こえたのが、キュウタが鳴らした仏壇の鐘の音だった.. 無言のまま佐間太郎に線香が渡される。彼はキュウタのつけたロウソクの炎でそれを燃 ---------------------[End of Page 72]--------------------- やし、同じようにして鐘を鳴らした。 そして、悟った。 全《すべ》てがわかったわけではない。ただ、そのカケラがここにあった。 仏壇の写真は、テンコの写真だった。いや、正確にはテンコ本人ではない。テンコに瓜二《仏壇の写真は、テンコの写真だった。いや、正確にはテンコ本人ではない。テンコに瓜《ロつり》ふたかす》つの人間の女性だ。写真の女性には微《かす》かにだがシワがあった。天使であるテンコには、シワなどはできないはずだ。 「お母さんだよ。俺《おれ》の」 キュウタは靴下を脱ぎながら、無造作に置いてあるお菓子の山から適当なものを選んで口に放《ほう》り込んだ。 「子供だけでここにすんでるのか?メシもお菓子?」 「子供じゃねえ。メシはお菓子。あと栄養ドリンクとか。気合入れないと生きていけないからな。コンビニ弁当は盗みすぎて、もう店にも入れねえし」 そう言うキュウタの顔は、いつもの強がりではなく本当に大人びていた。 「お父さんは俺が生まれてすぐに出て行った。顔も見たことねえ。お母さんは、いつか帰ってくるって、何度も俺に言った。俺が大人になれば帰ってくるってさ。その時には、一家揃《そろ》って幸せに過ごせるってね」 激カラと書かれたスナックを口から吐き出しながら、彼は続けた。 「だけど二年前ぐらいかな。お母さんは死んだ。ハッキリ言って……」 ---------------------[End of Page 73]--------------------- 唐辛子で真っ赤になった口が、言葉を選ぶ。 「すっげえ悲しかった」 部屋の隅で、ノゾミがお菓子を選んでいる。どれを食べようか。兄の話には興味がないらしい。あるいは、今、目の前で行われている会話の内容が理解できないのかもしれない。 「お母さんは死ぬ間際に病院で言った。お母さんはいなくなるけど、きっとお父さんは帰ってくるって。俺が大人になった時、お嫁さんを貰《も・り》った時、きっとこの家に帰ってくるって」 佐間太郎《さまたろう》は口をはさむべきか迷ったが、小さな声で聞く。 「どうしてこの家に住んでいるんだ?他《ほか》の大人の世話になるとか、考えなかったのかP」 キュウタは恐ろしいほどの目で佐間太郎を睨《にら》みつけた。 「俺は大人だ。だから他の大人なんて必要ない。あいつら、土地の権利書がどうだとか、そんなことしか言わない。くだらない」 彼の目は充血して赤くなっていく。それは、憎しみが瞳《ひとみ》に集約されていくようだった。 佐間太郎は、朝に見た黒い男のことを思い出す。 『悪魔は存在します。悪魔は憎しみの下《もと》に存在します。悪魔は悲しみをかぎつけてやってくるんです。そして、痛みを、辛《つら》さを吸い込んで赤く染まっていく』 まさか、この小さな少年が負った心の傷が、彼を悪魔にするというのだろうか。 人間は、そこまで簡単に悪魔になってしまうのだろうか。いや、簡単に、だなんて間違 ---------------------[End of Page 74]--------------------- いだ。彼にとってはきっと、地獄のような苦しみだったのだろう。幼い子供二人で生活をしていくのは難しい。万引きを頻繁《ひんばん》にしていたというのも、金銭的な問題が関係しているのかもしれない。 「俺はもう大人だ。それにテンコと結婚する。きっとお父さんは帰ってくる。そうすれば、幸せになれるんだ。俺だってちゃんと、笑ったりできるんだ」 思えば彼が自然に笑う顔など見たことがない。 「俺が大人になったと知れば、お父さんは喜ぶだろう?しかもお嫁さんはテンコだぜ?お母さんにそっくりだ。まるで昔みたいじゃないか。そしたら、もう、こんな寂しい生活しなくても済むんだ。もう、毎日泣いたりしなくていいんだ」 それを最後にキュウタは黙り込んだ。線香の心地よい香りが、部屋の中に漂う。 電気もつけられずに、六畳の和室で、少年はこうして毎日泣いていたのだろう。 佐間太郎《さまたろう》はなんと言っていいかわからずに、しばらく彼のことを見ていた。 ただ、あまりにも彼は無力だった。 キュウタの頭に手を置いて、グシャグシャッと撫《な》でてから挨拶《あいさつ》もせずに佐間太郎は家から出ていく。なにも話すことができなかった。 ---------------------[End of Page 75]--------------------- 第四章恋愛体操 その夜の神山《かみやま》家。チャイムを聞いて玄関のドアを開けた久美子《くみこ》は、ギョッとした。 青白い顔をした佐間太郎《さまたろう》が、なにか思いつめたような表情で立っていたのである。 「あの、おか、えり、なさい……」 「うん」 彼は=言だけ残し、フラフラと階段を上って行った。 「クイズ、ダメだったのかしら……ト わりとボケてみる久美子であった。 「にゃに?どちたの、あれ?」 二階へと向かう無気力人間佐間太郎を見た美佐《みさ》が、例の格好で久美子に聞いた。 「え?いや、その、わからないんですけど。とにかく、最近みんな変なんですよ」 「変?変なのは佐間太郎とテンコだけでしょ?」 「まあ、その、そうなんですけど……」 「いつものことじゃん。久美子ちん、なに気にしてんの?」 ---------------------[End of Page 76]--------------------- 考え過ぎなのだろうか。彼女は唇に指を当ててウムムとうなる。そんな久美子の、シャツの袖《そで》を引っ張るものがいた。いつの間にやってきていたのだろう、メメだ。 「久美子お姉ちゃん。お兄ちゃんは大丈夫だから。心配しないで」 「メメちゃんは、どうしてそう思うの?」 膝《ひざ》を折って視線を低くする彼女に、メメは少し考えてから答えた。 「だって、お兄ちゃんだもん」 答えになっているようでなっていない。しかし、久美子は納得してしまった。 なにやら思いつめていた表情をしていたからと心配したが、どうやら無駄に終わったようだ。 「わかりました。神山くんのこと信用してますからね。うん、大丈夫っ1」 まあ、その、全然大丈夫じゃないことがこの直後に起こるのだが。 二階のテンコの部屋では、すでに佐間太郎が彼女のベッドの上に座っていた。 二人してベッドに座り込み、黙っている。テンコはクッションを抱きかかえ、視線をギュッと低くした。 急に部屋にやってくるなんて、どうかしたのだろうか。もしかして、今日学校で無視したこと怒っているのだろうか。だとしたら謝らなくちゃいけない。でも、あれは昨日のキスのことが原因だし。そう、そうだよ。だってキスもしてくれないなんて、ひどすぎる。 あれは、あたしのことが嫌いだって遠まわしに言っているようなものじゃない。 ---------------------[End of Page 77]--------------------- 「……(佐間太郎《さまたろう》を横目でチラッ)」 「……(佐間太郎は無言のまま)」 ぎゃー1なんかめちゃめちゃ思いつめた顔してるし!どうしよう、確かにあたしも傷ついたけど、佐間太郎も傷ついたとは思うし。でもあれを許すわけには、いやいや、だけど、ほらほら、おりゃおりゃ、にゃにゃ、もうわからんっ1 「テンコ」 「はい(素《す》で)」 心の中の大論争とは逆に、素直な声で彼女は答えた。なにを言われるのだろうか。怒られるのだろうか。それとも謝られるのだろうか。なんだろう。なんだろう。もしかしてキスの続きとか?え?そ、そんなことある?だって昨日NGで今日OK?じゃあ明日はなんですかP”ひい、もうわかんないっ、出る、頭から、湯気、で、でるう…………:………………・……あ、我慢できた。 「テンコ」 「はい。……プス(漏《も》れた)」 「お前は、天使だよな?」 天使。神様の使いである天使。神様の息子である佐間太郎の監視役、指導役、お目付け役。そういう関係。家族であって家族じゃない。あたしだけ仲間はずれ。天使。 「うん」 ---------------------[End of Page 78]--------------------- 「俺《おれ》は神様だよな?」 神様。偉大なる神の一族。世界の全《すべ》てを司《つかきど》る全知全能の神。一応、そういうことになってる。 あたしは天使。佐間太郎は神様。 あたしは、天使。 佐間太郎は、神様。 二人は結ばれてはいけない。ルール以前の問題。 「神様ってやっぱり、人を助けるべきだよな。困ってたりとか、悲しんでる人を見たら、なんとかするべきだよな」 「な、なんだ、そっちの話か……」 テンコは、てっきり身分の差を理由に、今後の関係性を決定されるのかとハラハラしていた。だからこそ、思ってもいない話題に戸惑《とまど》う。 「うん。そう思うよ。佐間太郎は神様なんだからね。だから、人間を助けるべきだよ」 「そこで話がある」 「なーに?」 「キュウタと付き合ってくれ。むしろ結婚してくれ」 ピーーッ。 ---------------------[End of Page 79]--------------------- 「んんもう1佐間太郎《さまたろう》ったら信じられないんだから!」 テンコはベッドから布団《ふとん》を引き剥《は》がすと、ぐるんぐるんと丸めて佐間太郎に投げつけた。 「んぼああう1なにすんだ1俺《おれ》はただ、あいつの気持ちは真剣だって」 「なにそれ!だからなによ1あたしは、そんなのどうでもいいの1あたしが知りたいのは……」 あたしが知りたいのは、誰《だれ》の気持ち?わかってるくせに、言えない。彼だって知ってるくせに、どうして? 「どうでもいいって言い方はないだろ?お前、ちょっとひどいそ」 彼は少しだけ真剣な調子で言った。たとえ、ぐるぐるっと布団を丸めたやつの直撃を受けて、その勢いで床に倒れていても、真剣だった。 「あいつだって、男なんだよ。だから、お前も女として答えてやらなくちゃいけないだろ?」 「じゃあ、佐間太郎は男じゃないの?男として、キュウタくんとあたしが付き合ってもいいっていうの?」 テンコも負けじと冗談ぽさを声色《こわいろ》から消して答える。その顔を見て、佐間太郎は言葉に詰まった。 自分は男として彼女に対してどう思っているのだろうか。 そのことを考えると、いつも頭にモヤがかかってしまう。答えはわかっているはずなの ---------------------[End of Page 80]--------------------- に、白い雲のようなものがそれを邪魔して手に取ることができない。そんなもどかしさを感じてしまう。 自分から視線を外し、黙ってしまった佐間太郎を見て、テンコはポツッと言った。 「実家に帰らせていただきます」 「え?」 あまりに突然の一言に、佐間太郎は反射的に聞き返す。それが相当気に入らなかったのか、今度は大声で、それこそ神山《かみやま》家の一階にいても聞こえるような、むしろお隣さんの佐《ささ》々木《き》さんの家まで聞こえるように、テンコは叫《さけ》んだ。 「あたしは、テンコはっ、実家に帰らせていただきますっっ!」 それと同時にテンコの頭から、プシューと蒸気機関車のように湯気が上がる。彼女の叫びは、鼓膜《こまく》がビリビリと震え、頭がクラクラするほどの大声だ。 佐間太郎はキンキンする耳を手で押さえながら、実家ってどこだろう?と素直に疑問に思うのであった。 それからのテンコは凄《すご》かった。なにが凄いって、その荷造りの早さである。布団に潰《つぶ》されていた佐間太郎を軽いキックで部屋から追い出すと、そのままドアをバスンと閉めた。 そしてクルッと振り向き、タンスから一枚の風呂敷《ふろしき》を取り出す。唐草《からくさ》模様の昔ながらの風呂敷である。なぜ天使であり華麗な女子高生でもある彼女の部屋に、こんなオールドスク ---------------------[End of Page 81]--------------------- ールな風呂敷《ふろしき》があるのかは不明だが、マジックペンで「ママさんの(非常用)」と書いてあるところを見ると、どうやらビーナスがなにかの時に使うアイテムらしいことがわかった(なんの時に使うかはわからない)。 風呂敷をベッドの上に広げ、クローゼットから下着やタオル、そしてシャツにパンツを取り出すと、手早く包みリュックサック状にして背負った。 部屋から無言で立ち去り(佐間太郎《さまたろう》が廊下の端《はし》から見ていたが無視した)リビングに行くと、カタツムリ状態のママさん、美佐《みさ》、メメが揃《そろ》ってテレビを見ていた。 一同は風呂敷を背負うテンコを見て言葉を失ったが、彼女は「実家に帰らせていただきます」とだけ宣言すると三人の反応も見ずに歩き出す。 ー盒 「ちょっと美佐ちゃん、なーにあれ?(ビーナス)」 「さあ?家出じゃないの?(美佐)」 「どこに?(メメ)」 「実家だってさ(美佐)」 「実家ってどこ?(ビーナス)」 「さあ?(美佐)」 ---------------------[End of Page 82]--------------------- 「って、なんでやねん!そらきみ、やりすぎやがな1(テレビ)」 「あっはっはっは(三人)」 ドタドタドタ、ガラガラガラ。 「っておい!テンコ、どこに行ったか知らないかP(佐間太郎《さまたろう》)」 「あら佐間太郎ちゃん、ふ菓子食べる?歯の裏にすごい、つくのこれ(ビーナス)」 「食べないってば1テンコはP(佐間太郎)」 「どうせあんた、またケンカでもしたんでしょ?(美佐《みさ》)」 「うっ。そ、それはその、姉ちゃんには関係ないだろ1(佐間太郎)」 「お兄ちゃん、テンコ実家だって(メメ)」 「実家ってどこだよP”(佐間太郎)」 「佐間太郎ちゃん、わたがし食べる?わたがし。これ歯の裏に……(ビーナス)」 「だから食わないって言ってんだろ1(佐間太郎)」 「そらきみ、おとぎ話の世界やないか1(テレビ)」 「あっはっはっは(四人)」 「ってテレビで笑ってる場合じゃないだろ!(佐間太郎)」 「なになに佐間太郎ちゃん、何チャンがいいの、何チャンが?(ビーナス)」 「いや、チャンネルの問題じゃなくて!(佐間太郎)」 「えいっ(ビーナス)」 ---------------------[End of Page 83]--------------------- 「パチンッ(リモコン)」 「はあはあ……いけませんわ、そこは、あう、そこは(テレビ女)」 「なにを言ってるんだエリコさん、僕らは恋人じゃないか(テレビ男)」 「…………::…・…:………:(四人)」 「ダメ、その、あっ、そこは、そこだけは1(テレビ女)」 「お兄ちゃん、なんで女の人ハダカなの?(メメ)」 「ええっ17…そ、それはその、それはだな、ゴホン、ええと(佐間太郎)」 「メメ、おしべと、めしべが……(美佐)」 「だあああ!姉ちゃん、変なこと教えなくていいから!(佐間太郎)」 「メメちゃん、めしべからは蜜《みつ》がね、甘い蜜がトロリトロリとね(ビーナス)」 「こらっ1オフクロ!なに言ってんだおいっ1(佐間太郎)」 「蜜?蜜?トロリトロリ?(メメV」 「いや、その、蜜はどうでもよくて、つまり、コ、コウノトリさんがだな(佐間太郎)」 ダダダダダ、ドタンッ。 「ってみなさんH(久美子《くみこ》)」 「って、みなさんー−”テンコさんが、天国に家出したみたいですけどっ1」 耳まで真っ赤にしている佐間太郎、不思議そうな顔のメメ、ニヤニヤと笑っている美佐、 ---------------------[End of Page 84]--------------------- 歯の裏についたお菓子を指でなんとか取ろうとアガアガしているママさん、四人は同時に久美子《くみこ》の方を振り向く。あまりの注目のされっぷりに久美子は「うっ」とうろたえたが、そのまま話を続ける。 「わたしが、お風呂《ふろ》から出て、廊下を歩いてたら、ビーナスさんの部屋にテンコさんが入って行って、どうしたんだろう、って、思って、声をかけたら『あたい、天国までちょっくら家出をば。んじゃ、いってくらー』って言ってました……」 彼女はそう事態を説明しながら、視界の隅に入っていたテレビから無言で目を逸《そ》らせるのであった。 Oー 1神様の書斎。佐間太郎《さまたろう》の父親であるパパさんこと、神山治《かみやまおさむ》が神様としての仕事をする場所である。そこは地上から遥《はる》か上空、真っ白な雲の上にポツンと存在している。 世田谷区《せたがやく》にある神山家の、パパさんママさんの寝室を見ていただきたい。和室の押入れの中には、まるで粗大ゴミのようにドアが立てかけてある。 なんの変哲もない、ただのドア。どこにも通じていないように見える、役立たずのドア。 しかし、そのドアにはこんな貼《は》り紙がしてあるのだ。 「天国への扉。基本的に出入り禁止(パパさんより)」 ---------------------[End of Page 85]--------------------- チラシの裏にマジックで書かれた貼り紙。嘘《うそ》くさい。すごく冗談っぽい。 しかしドアを開けば、その先には信じられない光景が広がっている。そう、ドアの向こうは、遥か上空にある雲の世界。つまり、天国なのだ。 基本的に天国への扉は使用禁止になっている。神様であるパパさんの仕事を邪魔してはいけないからだ。その存在はママさんしか知らないはずであるが、なぜか神山家の全員が知っていた。たぶんきっと、ママさんが「あ、天国のドアの掃除しといて。開けちゃダメよ、パパさんのとこにいっちゃうから」と大声でテンコに指示していたのが原因だと考えられる。なんとアバウトなママさんなのであろうか。 テンコは初めてくる天国の風景に息を飲んだ。いや、正確には人間界に生まれる前は、ずっとここで天使として暮らしていたはずなのである。しかし、その頃《ころ》の記憶はほとんどない。ママさんやパパさんに、昔話として聞いたことを覚えているだけなのだ。 真っ白な雲の上を、テンコはゆっくりと歩いた。空の青が眩《まぶ》し過ぎて、目を開けていると頭が痛くなってしまうほどだった。彼女は手で顔を隠すようにして、ふわふわの雲の上を歩き続ける。もちろん、背中には風呂敷《ふろしき》包みを背負って、だ。 しばらくすると、雲の上に一枚のドアが浮かんでいるのが見えた。あれがパパさんの職場である、天国の書斎だ。外から見るとドアしかないように思えるが、天国への扉と同様に、手をかけ、開くことでその先の世界が広がる。 自分の手でドアを押し開けることが重要なのだ。 ---------------------[End of Page 86]--------------------- 外からでは、その中は窺《うかが》い知ることはできない。テンコはノックを二回してから、「神様の書斎(ただいま仕事中)」と貼《は》り紙のしてあるドアを開けた。 「ど、どうしてだ、僕らは恋人じゃないか、なぜ拒むんだいPエリコさんー9”エリコさんP」 ドアを開けると、切実な男性の声が耳に入ってきた。もしかしてこれは、パパさんが人間の願いを聞いているとか、そういう大切な場面なのであろうか。テンコはこのまま帰ってしまおうかとも思ったが、書斎の中心に置いてある机越しにパパさんと目が合ったので、頭をヒョコッと下げて中に入ることにした。 ここは本来、パパさんと大天使だけが入ることができる場所。神の仕事場である。 四方の壁は本棚でできており、部屋の中心には豪華そうな机とイスがあるだけ。そんな、とてもシンプルな書斎である。ただ、よく見れば不思議なところはたくさんあって、机の上のビーチボ!ルを何倍にも大きくしたような地球儀は、どういう仕掛けかフワフワと机から浮いている。それどころか表面に薄い霧のようなものまである。きっと、あれは、雲なのだろう。つまり、この地球儀は本物の地球そのものなのだ。ゆっくりと回転する地球儀を見ながら、テンコは申し訳なさそうに言った。 「ごめんなさい、パパさん。お仕事中でしたか?」 「テテテテテ、テンコちゃんじゃないか1どどどど、どうしたんだいあいあいあ1」 ---------------------[End of Page 87]--------------------- 必要以上に慌《あわ》てているパパさんを見て、テンコは首を傾《かし》げる。 「あの、その、人間の願いを聞いてたとか、そういうことじゃないんですか?」 「人間?願い?え、なに?なにが?」 「いやその、恋人がどうとか、聞こえたので」 「あ1そう、うん!ね1恋人がね!そうそう、そういうことね!うん、そうだ、そうだ、アハハ、この恋人たちには上手《 つま》くいってもらおうね1えいっ!えいっ!神の奇跡っ1恋人は激しいのが一番っ1えいっ1」 パパさんは何度か魔法をかけるような仕草を空中でしてから、どこからかテレビのリモコンを取り出してボタンを押した。 「あれ、パパさん。もしかしてテレビ見てたんですか?」 「ううん、違うよ。違う違う」 「それならいいですけど……」 立派な机の上にポータブルテレビが置いてあったのが見えたが、あえてそれ以上は追及しないテンコなのであった。 ー倉 「ああ1ノブオさん1きて1もつと、激しく1(テレビ女)」 ---------------------[End of Page 88]--------------------- 「やった1恋人だものね1そうだよね!エリコ1(テレビ男)」 「きゃー1なんだかこの二人、急に激しくなったわね1(ビーナス)」 「だからオフクロ、なんでチャンネル戻すんだよ!おい!(佐間太郎《さまたろう》)」 「あのねメメ、おしべっていうのはね(美佐《みさ》)」 「うんうん蜜《みつ》が(メメ)」 「だから姉ちゃん、メメに変なこと教えんじゃねえよ1(佐間太郎)」 「神山《かみやま》くん1わた、わた、わた、わたし、じゅ、塾の時間が1(久美子《くみこ》)」 「どわあ!久美子さん、顔真っ赤じゃないか!それに塾とか通ってないから1落ち着いて1(佐間太郎)」 「だ、大丈夫、わたし、大人だし、これぐらいじゃ。くるくるきゅう〜(久美子)」 「なんだこのテレビ!激しすぎるぞ!どうなってんだ!(佐間太郎)」 ●ー 「それで、どうしたのテンコちゃん。佐間太郎となにかあったのかな?」 パパさんは書斎の窓際《まどぎわ》に立つと、外を見ながらそう言った。夏はアロハシャツに短パンという姿の彼であったが、今は手編みのセーターの上にどてらを着ている.、ズボンはコールテン地の温かそうなものだ。セーターの胸の部分には『神』という気合の入った文字が ---------------------[End of Page 89]--------------------- 見えた。なんというか、とてもわかりやすいセーターである。誰《だれ》が見ても、彼が神様ということがわかる。 「そのセーター、ママさんからのプレゼント、とかですか?」 テンコはゆっくりと歩きながら、パパさんの隣に立つ。開け放たれた窓の外は、真っ白い雲と青い空しか見えなかった。こうしてみると、自分が地上から遥《はる》か上空にいるということがはっきりとわかる。 「セーター?ううん、ママさんじゃないよ。これはね、スーさんに作ってもらったんだ。 ああ見えてもね、編物とか得意だから」 「スーさんー7”って、あのブタですか?スグルがP」 ここで説明すると、スーさんとは以前テンコの元にやってきた大天使のことである。大天使のわりには、名前はスグルで、見た目はブタの貯金箱であった。背中から羽の生えたブタの貯金箱が、突然自分の部屋にやってきたのだからテンコは驚いたものだ。 雑貨屋さんでワゴンセールされたり、色々と大変なスグルだったのである。 「あいつ、編物なんてできるのかな……」 どう考えても、スグルはブタの貯金箱の形をしていたはずだ。あの短い手足を使って、編物……。まったくもって想像がつかない。不思議そうな顔をしているテンコに向かって、パパさんは笑いながら答えた。 「ああ見えてもスーさん、大天使だから。偉いからね。編物ぐらいできるんだよ」 ---------------------[End of Page 90]--------------------- そういう問題だろうか。納得できない。 彼女の不満などまったく気にせずに、パパさんは背伸びをする。恐ろしいほどのマイペースだ。 「それより、心の声をここに届かないようにしてください」 「え?う、うん。わかった。今から圏外にするね」 「はい、それでいいんです。それでいいのです」 ー魯 「心の声でテンコ呼んだら?(メメ)」 「そうだ、それだ1うーんっ、テンコー1(佐間太郎《さまたろう》)」 「テンコのご利用になっている心は、ただ今圏外にいるか、元気がないため出ることができません.、メッセージを残す場合は、発信音の後に録音してください(アナウンス)」 「なんだこれ!こんなシステムなのか!心の声って1(佐間太郎)」 「ピーッ(アナウンス)」 「え1あ……えーと………その……あー……(アドリブに弱い佐間太郎)」 「早くしないと録音終わっちゃうよ。ニヒヒ(美佐《みさ》)」 「ああ、その、急にいなくなったりするなよ……俺《おれ》はお前のことがー−・(佐間太郎)」 ---------------------[End of Page 91]--------------------- 「ピーッ。メッセージをお預かり致しました(アナウンス)」 濡らやだ。終わっちゃったわね(ママさん)」::;つ 「俺は、俺はやっぱり、お前がいないとダメなんだ。お前が必要なんだ(佐間太郎)」 「ピーッ。メッセージをお預かり致しました、再び(アナウンス)」 「なんでHさっきの音はー9 (佐間太郎)」 「フェイントです(アナウンス)」 「ありか1そんなのありかよー−“なにが再びだコラーー・(佐間太郎)」 「ヒューヒュー(久美子《くみこ》以外の一同)」 「っだよ1なんだよちくしょう!(佐間太郎)」 「メッセージはスグルがお預かり致しました(アナウンス)」 「なんでブタが!なんでブタが預かるんだよ11・ちくしょーー−・(佐間太郎)」 Oー そんな大騒ぎな下界とは違い、天国は静かなものだった。テンコは持ってきた毛布を書斎の隅に敷いて、そこに眠った。パパさんはどうしたものかなと考えたが、まあ、なんとかなるだろうとお気楽なのだった。 それから数日、テンコは人間界には帰ってこなかった。佐間太郎はどうにか天国と連絡 ---------------------[End of Page 92]--------------------- を取る方法はないものかと考える。なにせ天国と地上との距離は天と地ほど離れているのだ(そのままだと言わないで欲しい)。まさか飛んでいくわけにもいかない。 本来なら天国への扉を使って移動するのだが、佐間太郎はテンコの様子が知りたいだけで、彼女に姿を見られたくない。心配していることがバレたら、恥ずかしいじゃないか。 天国にいる人々とのコンタクト。考えれば考えるほど不可能に思える。 が。方法は、あった。 カコーン。エビス湯。 「おやじ、今日は話があってやってきました」 「お?佐間太郎じゃないか。元気にしてる?」 湯船に肩を並べて入る父と息子。誰《だれ》がこの二人が、神様とその後継者だと思うだろうか。 「俺はどうでもいいの。テンコは?元気にしてんの?」 「え?してるしてる。ずっとファミコンとかやってるの」 「あんのかよ、ファミコン……」 「洗濯も掃除もしてくれるし、こっちは楽だよ。まあ、今までもスーさんがしてくれてたからいいんだけどさ。でもま、お風呂《ふろ》だけはね、天国よりこっちがいいね。ほら、人間は温泉に入ると言うだろ?『あー、天国だi』って。あれ間違ってないね」 「そんなことはどうでもいいの」 ---------------------[End of Page 93]--------------------- 彼は煮えるように熱い銭湯の湯船の中、本題を切り出す。 「帰ってこないのか。もう、あいつ」 「本人次第じゃないかな。戻ってきて欲しい?じゃあ戻る奇跡を考える」 「いや、ちょっと待ってくれ」 熱さに耐えかねた彼は、湯船から出ると、ケロリンと書いてあるプラスティックのイスに座った。 「本人の気持ちを優先してくれ。神の奇跡で帰ってこられても、嬉《うれ》しくないし」 「あっそ。わかったわかった。んじゃ、そゆことで」 「ああ。それじゃあな。今度ここで会ったら、流してやるよ」 「なにを?」 「背中」 背中を息子に流してもらえる。よほど嬉しかったのか、パパさんは立ち上がって両手をブンブカ振った。ぶるぶるぶ。 「ありがとー!佐間太郎《さまたろう》、ありがとおIH」 「立つな1全裸で仁王《におう》立ちして両手を振るなああああああああ!」 「やくるとお、ヤクルト貰《も・り》うの忘れずになあああっあ!」 「わかったっつーのーー鱒」 ---------------------[End of Page 94]--------------------- 「あー、いいお湯だった」 体からホコホコと湯気を出すパパさんを見て、テンコは不思議そうな顔をする。 「あの、パパさんて、いつも同じ時間にどこに行ってるんですか?」 「え?あー。天国だよ?こっちの天国じゃなくて、あっちの天国だけどね」 「はあ。いや、別にいいんですけどね。あたし、ずっとこの書斎にしかいないから運動不足になっちゃって」 「本当に?じゃあストレッチとかする?教えてあげるよ?」 最初はストレッチをしていたパパさんだったが、ラジオ体操のような運動まではじめてしまった。 「テンコちゃんもする?体操?」 「いや、体操とか、あんまり得意じゃないし」 「あっそう。それならいいんだけど。いいよ、頭が空っぽになって。気持ちが整理できて」 神様が頭を空っぽにしていいのだろうか。テンコは訴《いぶか》しげな顔でパパさんを見るが、そんなことなどおかまいなしに彼は手足をブンブカと動かす。. 短めに切られた髪の毛に、手入れされていないアゴヒゲ。偉大なる神様というよりは、下町のオヤジという風体《ふうてい》ではあるが、彼は世界を司《つかさど》る神様なのだ。そんな偉大なる神様は、腰とか腕とかをポキポキいわせながら、体操を続けた。 「テンコちゃん、これなんて言うか知ってる?」 ---------------------[End of Page 95]--------------------- 「これって……体操の名前ですか?」 「そう」 「いや、知らないですね……」 パパさんと話していると、なんだか全《すべ》てがどうでもよくなる気がする。さっきまで感情が昂《たかぶ》っていたのに、今はずっと落ち着いている。なんでだろう。 この場所も関係しているのだろうか。地上から離れた、神様だけの書斎。車の音などの騒音は一切ない。聞こえてくるのは、風の音と、ポキポキというパパさんの骨の音だけだ。 穏《おだ》やかで、心静か。 「この体操ね、恋愛体操って言うんだけど……」 パパさんがそう言った瞬間、テンコの体がゴムが弾《はじ》けるみたいに反応した。 「パパさんっ!今、なんてP」 「ひいつ!ご、ごめんなさいっ!」 彼女は犯人を追い詰める万引きGメンのような表情で、グイッとパパさんに近寄る。 「ごめんなさいじゃなくて、なんて?なに体操って?なにあい体操って?なにれんあい体操って?」 「れ、れんあい、たいそう、です」 「パパさん」 「は、はい」 ---------------------[End of Page 96]--------------------- 「教えてもらえますか、その恋愛体操とやら」 「は、はいい」 パパさんは体操の手順を説明しながら、テンコに恋愛体操について語った。 「恋愛体操って言うのは、その名の通り恋愛の体操」 「よくわかんないんですけど」 「だから、ラジオ体操はラジオの体操でしょ?」 「は、はあ」 「恋愛体操は、恋の体操。愛の体操」 「いやだから、よく意味が……」 「大丈夫、やってればわかるから」 「そんなものですか……」 もしかして自分のことをからかっているのだろうか。テンコはそうも思ったが、パパさんは真面目《まじめ》な顔をして動き方などを説明するので、あまり疑《うたぐ》るのもよくないなと考え直した。体操は単純なもので、両手を広げたり閉じたり、足を広げたり閉じたり、腰を曲げたり曲げなかったり、という、文字にすると「なんだそりゃ」な感じだった.、 「はい、ここまでが前半部分ね。ちなみに、省略しても可」 「なんですかそれ!だったら省略しましょうよ1」 一通りレクチャーが終わった後に、パパさんはどこからかポータブルレコードプレイヤ ---------------------[End of Page 97]--------------------- 1を取り出して、レコードに針を落とす。ザラついた空気がスピーカーからこぼれ、しばらくすると乾いた音でピアノが流れ始めた。 「はい、こっから後半。これに合わせて体操ね」 「は、はい」 「まあ音はなくてもできるんだけどさ」 「できるんですか1」 ピアノは穏《おだ》やかでのんびりとしていて、体操という響きからはかけ離れた曲を奏でている。 「じゃあまずは腕を閉じて。それからゆっくりと目を瞑《つむ》って」 「はい」 言われた通りに腕を閉じ、静かに目を閉じる。 「好きな人のことを考えて。深く、深く考えて」 テンコは真っ暗になったマブタの裏で、好きな人のことを考えた。 あたしは、やっぱり、あの人のことが好き。だけど、上手《らつま》くいかない。どうしてだろう。.きっとあたしがかわいくないからだ。もつと素直になればいいんだろうし、もっと気持ちを伝えればいいんだ。それなのに、どうしても強がってしまう。あたしは、意地っ張りだ。 なんてかわいくないんだろう。あたしは、あたしなんて嫌いだ。 「好きな人とどうしたいか、どうなりたいか、それを考えながら腕を開いて」 ---------------------[End of Page 98]--------------------- パパさんの優しい声が聞こえる。胸の前で組んでいた腕を広げながら、たった一瞬でたくさんのことを考えた。胸の中がいっぱいになるほど、たくさんのことを考えた。 あたしはただ、あの人、……あいつと、一緒にいたいだけなの。そりゃすごく仲良くなれればいいけど、もつと言っちゃうとそれ以上の関係になりたいけど、きっと無理だから。 贅沢《ぜいたく》は言わない。言いたいけど言わない。きっと、言っちゃいけないんだろうし。あたしは→緒にいたい。あいつの横顔を見ていたい。 あいつが頬《ほお》を膨《ふく》らませて怒る顔が好き、あいつが笑いながらそっぽを向く横顔が好き、あいつが嬉《うれ》しそうな時も、困っている時も、一緒にいたい。くだらないケンカなんかで離れ離れになりたくない。ただ、→緒にいたい。一緒にいられれば贅沢は言わない。 「じやあ、どうしてここにきたのかな?」 ズルン、と柔らかくて心地のよい空間から体が落ちた気がした。肌の表面が汗で湿っているのがわかる。これは、パパさんの声だ。目の前に、すぐ目の前に、パパさんがいる.、だけど、どうしてか目が開けられない。開けちゃいけない気もする。 真っ暗だった世界が、いつの間《ま》にか真っ白い世界に変わっていた。さっき見た雲よりも、うんと真っ白い世界。心の奥に言葉が詰まって、苦しくなるぐらいの真っ白。 「だってあいつは、あたしのことなんて嫌いで、あたしも、あいつのことなんて、なんとも思ってないし」 「またまた。そうやって。そんなことないのは、テンコちゃんが一番知ってるはずじゃな ---------------------[End of Page 99]--------------------- いか」 声はどんどん近づいてくる。パパさんは、どれだけ近くで声を出しているのだろうか。 鼻と鼻がぶつかりそうなほど近く?吐息が届くほど近く?すごくすごく近い。 「そんなことない。あたしはかわいくないし、すぐ叩《たた》くし、気持ちを言葉にすることもできないし、だから、きっと、あいつは、他《ほか》に好きな人を作るんだと思う」 目を閉じているはずなのに、ギュッって瞬《まばた》きをする感じがした。そして、まだ目を閉じているのに、静かに視界が開ける。そこに映っていた風景はやはり真っ白な世界であった。 ただ、今までよりも恥ずかしい、くすぐったい感じに変化していた。 パパさんの心の中から飛び出して、自分の心の中を覗《のぞ》き込んでいるような感じ.. 熱い液体が、頬を指でなぞるみたいに伝っていった。もしかしたら、パパさんが頬を指でなぞったのかもしれない。どこからが自分で、どこからがパパさんなのかわからない.、どこからが思考で、どこからが現実なのかわからない。 ずいぶんと混乱しているようだった。パパさんの声が、自分の中から聞こえてくる。 「好きな人のことを考えてって言った時、誰が一番最初に浮かんだ?」 テンコの唇は小さく震えた。そんなの決まってる。、あの、鈍感でバカで、ネボスケで、最近ちょっとだけ頼りがいのある、あいつだ。 「それが答え。たったそれだけのこと。どうして答えが出てるくせに悩むの?」 自分の声なのか、パパさんの声なのかはわからなかった、、ただ、声が響いた。 ---------------------[End of Page 100]--------------------- その通りだ。あたしはあいつのことが好きなのに、どうして悩むんだろう。いや、好きだから悩むんじゃないか。嫌われたくないから、離れたくないから悩むんだ。いつか嫌われてしまうのが怖いから、今、この瞬間に嫌ってやるんだ。いつか離れてしまうのが怖いから、今、この瞬間に離れてしまうんだ。そうやって安心するんだ。そうやって悩むんだ。 ピアノの音がいつの間にか消えていた。閉じた時よりもずっとずっとゆっくり目を開けると、近くにいるはずのパパさんは、窓際《まどぎわ》で雲を眺《なが》めていた。短いタバコを吸っていて、吐いた煙が雲になる。 テンコはなぜだか恥ずかしくなって、照れ隠しに何度も目をこすった。だけど涙なんて出ていなかったし、体操をはじめる前と身体的にも変わりはない。それなのに心がスッキリと軽く、心地よいマッサージを受けた気分だった。 「どうだった?恋愛体操」 パパさんは雲を眺めたまま言う。 「かたくなった心をほぐす、恋愛体操。考え方がカチカチになった時にすると、柔らかくなるでしょう?これも、神の奇跡のひとつ」 「……はい」 彼女は、なんだかパパさんに意地悪をされたような気がして悔しかった。 「あのね、パパさん」 「なーに?」 ---------------------[End of Page 101]--------------------- 「神様って、もっと偉そうで、大げさで、奇跡とか、ハデだと思ってたの。海を割ったり、雷落としたりとかね」 「うん」 「だけどね、こんなに意地悪で、優しくて、あったかくて。体操なんて、笑っちゃうほど簡単なことで、あたしのこと救ってくれるなんて……。すごいですね」 「当たり前じゃないか」 パパさんはレコードの針を上げて、ニコッと笑った。チリッと小さな音がする。 「だって神様だもん」 心があったかかった。とても。 ---------------------[End of Page 102]--------------------- 第五章工クストラ・ラージ 「さまたろー1テンコ、ただ今帰りましたっ!」 神山《かみやま》家、佐間太郎《さまたろう》の部屋。ドアを開けた瞬間、着替えをしている久美子《くみこ》に出くわした。 「どあわわあわあわあ、久美子さん、あなた、あたしを誘惑中P”」 「いや、違いますって、わたしは、今、ただ、着替え中H」 すーはーすーはー(二人して深呼吸中)。 「そ、そうよね。久美子さんと佐間太郎ってば同じ部屋だもんね。そりゃ着替えぐらいするよね……って着替えしてんのP”なにそれ、もしその、着替えチラリとか、そういうの、なに、どうすんの、そんなピンクハプニングが起こったら1対応は!久美子さん的な対応はp」 テンコは両手を真《ま》っ直《す》ぐと頭の上に掲げ、その場でジタンバタンと足踏みをして不満をアピールする。なんだか、妙にテンションが高い。怒っているには怒っているが、どこかしら楽しそうでもある。 「テンコさん、落ち着いてくださいっ。今、この部屋にはわたししかいないんです。だか ---------------------[End of Page 103]--------------------- ら、そういうピンクハプニングは起こらないから大丈夫なんですっ」 すーはーすーはー(二人して深呼吸中)。 「そうなの?じゃあ佐間太郎は?」 「バスルームにいると思いますけど……」 「ありがとっー−”」 久美子が言った瞬間、テンコはペロリと舌を出して、妙に爽《さわ》やかな微笑《ほほえ》みと共に廊下をダッシュして去って行った。取り残された久美子は、下着姿で膝《ひざ》から床に崩れ落ちる。 「な、なんだったんだろう。テンコさん、元気になったのはいいけど、危ない薬とかに手を出してなければいいけど……。それに、今、神山くんはお風呂《ふろ》で……」 指をパクッとくわえ、三秒ほど思考する久美子。 「ま、いっか」 結論は楽観的であった。 一方テンコは、風呂敷《ふろしき》を背負いつつ、トテトテと階段を下りている。久美子に言われた通り、佐間太郎のいるバスルームに向かっているのだ。 時刻は只今《ただいま》午後九時。そんな時間にバスルームにいるのだから、大体この後の展開は予想できるはずである。しかし、妙に高いテンションのテンコは、バスルームに続く脱衣所の前に着くとなんの躊躇《ちゆうちよ》もなくドアを開けた。 「さーまーたろっ」 ---------------------[End of Page 104]--------------------- ガラガラガラ。シーン。 「あれ?いない?」 脱衣所には誰《だれ》もいない。ただ、佐間太郎《さまたろう》の着替えが乱暴に脱ぎ捨ててあるだけであった。 ここでテンコ、「うみゅみゅ?」と首をひねったかと思うと、これまた躊躇《ちゆうちよ》なく、お風呂《ふろ》場のドアを開けてしまうのであった。 「さまたろー?ろ?ろ?うろ?」 ガラガラガラ。カコーン。ピチョン。 「あ、いた!」 テンコは佐間太郎を見つけて、笑顔を浮かべた。しかし、見つけられた佐間太郎は笑顔ではいられない。なにせ、お風呂に入っていたら、いきなり家出をしていた天使にドアを開けられてしまったのだ。今日の入浴剤は森の香り。薄いグリーンのお湯をしているので、下半身までぼんやりと見えてしまう。見えてしまう。見えてしまう。 「ああ、あの、テンコさん?」 ニコニコと笑っているテンコに、どう声をかけていいのかわからない彼は、とりあえずバスタブのはじっこにチョルチョルと身を寄せて体を小さくしてみた。 「佐間太郎、ただいまっ」 湯船の中で団子虫みたいになる彼をものともせず、テンコは嬉《うれ》しそうに挨拶《あいさつ》をする。 「いや、ただいまって、その、あの……」 ---------------------[End of Page 105]--------------------- 困り果てている佐間太郎に、なんとテンコはズイッと一歩近づいてもう一度言う。 「た、だ、い、ま」 彼女の視線は、彼の顔に集中している。ぼんやりとした森の緑へはいっていない。とはいえ、見てないからといって、入浴中の男子にこんだけ近づく女子がいるだろうか。 「お、お帰りなさい」 もうどうしていいかわからなくなってしまった彼は、とりあえず挨拶をした。 「にヘへー。うん、ただいまあ。さまたろっ」 挨拶を返してくれたことに満足したのだろう、テンコはそう言ってニマーと笑った。 「…………」 「…………」 まだ笑っている。ニマニマ。そして見つめ合っている。なんなのだ、この状況。テンコ的には、久しぶりに見た佐間太郎の顔が懐かしいのだろうが、佐間太郎にとっては罰ゲームに近い。これはあれか、はつきり言った方がいいのだろうか。そうだ、勇気を出して言うべきだ。きっとテンコは、久しぶりに地上に戻ってきたことでテンションが高くなり、パーになっているのだ。パーに。 「あの、テンコさん」 恐る恐る、言葉を慎重に選んで佐間太郎は言う。 「なに?」 ---------------------[End of Page 106]--------------------- 「入浴中です。今日は森の香りなので、湯船の中とか、見えちゃいますから」 「え?」 ようやくだ。そこでようやくテンコは我に返った。もっと言うと、佐間太郎《さまたろう》が「湯船の中とか」と言った時に、彼女の視線はキッチリと湯船の中に一瞬移った。 「わああああああああ、佐間太郎のえっちいいしいしいいー−・」 ぽぽぽぽiーぽぽぽー1気の抜けた汽笛のような音を立てながら、彼女の頭上から湯気が噴出した。いや、噴出というか、噴火に近い。それは、ここ最近で一番大きな湯気であった。 「なに言ってんだ!お前が勝手に入ってくるのがわりいんだうが1」 「だって、だって、入ってるって思ってなかったから!(チラッ)」 「入ってるに決まってんだろ1それに、お前、俺の名前を呼びながら入ってきたじゃねえか1捜してたんだろ1」 「そ、そうだけど(チラッ)、捜してるからって、いることないじゃない!(チラッ)」 「お前、さっきからチラチラ見るな!さりげなく見るなH」 「だって意識すればするほど、視線が!勝手にーー“(チラチラチラッ)」 「だったら早く出てけーー−”」 「ふんふん、佐間太郎ちゃんも大人になったものね……(凝視)」 不意の声に振り返ると、いつの間《ま》にかママさんが脱衣所の天井に張り付き、クモのよう ---------------------[End of Page 107]--------------------- な姿勢で佐間太郎の入浴シーンを見ていた。もちろん、コタツに入ったままである。 パッと見、新種の火災警報器に見えなくもない。 「みんなー、ちょっと集合1。佐間太郎ちゃんが大人なのよー!」 ママさんは脱衣所から神山《かみやま》家のみなさんに集合をかけた。その声を聞いて、なんだなんだと美佐《みさ》やメメ、久美子《くみこ》までがやってくる。 「はい、えーとですね、おしべがですね……」 美佐はどこからか赤ペンを取り出して、佐間太郎に落書きをしようとした。 「うるせー!早くみんな出てけi”二 次期神様候補の声は、世田谷《せたがや》に響き渡る。 なにがどーなったのかはわからないが、テンコは元のテンコになって帰ってきた。久美子に対する態度も、佐間太郎に対する態度も、以前と変わらない。 朝になると久美子と朝食バトルを展開し、あたしが佐間太郎を起こすんだ、いや、わたしです、的な会話を繰り返した。進一《しんいち》も愛《あい》も「あ、やっぱこの前のは一時の気まぐれか」 と解釈したようである。全《すべ》てが全て、丸く収まる方向に進んでいるように見えた。 ただ、テンコ家出騒動の原因であるキュウタのことが残っている。 あれから佐間太郎とキュウタは、普通の友達のようにして会うようになった。くだらない話をしたり、公園で日向《ひなた》ぼっこしたり。少年の心の隙間《すきま》を、ゆっくりと佐間太郎が埋め ---------------------[End of Page 108]--------------------- ているようにも思える。そうすることにより、キュウタの日々の生活がわかってきた。 イジメにより学校には行っていない。いつか父親が帰ってくるからと、誰からも面倒を見てもらわずに生きている。だが、所詮《しよせん》は小学生。お金がないので電気やガスは止められている。いけないとわかっていながら、万引きをして食料を得ていた。 そんな生活から抜け出す、最後の望みがテンコと結婚することだったわけだ。 だが、それもあきらめたようで、今はもう「付き合ってくれ」とか「結婚してくれ」などとは言わなくなった。テンコと一緒にピクニックに行ったり、図書館で本を読んだり。 そういう当たり前のことが、当たり前のようにできるようになった。 佐間太郎《さまたろう》は、キュウタの孤独がなんとなくわかった。自分から大切な人が消え去ってしまい、一人ぼっちになること。過去に彼は似たようなことを体験したことがあるからだ。 だから、佐間太郎がキュウタと触れ合っているのは、神様として人助けをしているという感覚ではない。ただの友達、という言葉が一番しっくりくるだろう。 一番心配だったのは、彼が孤独に耐え切れなくなって悪魔になってしまわないかということだった。あの日、彼の家で見たキュウタの目は、憎しみで真っ赤に染まっていた。黒い服の男の言葉に怯《おび》えた佐間太郎だったが、それも取り越し苦労だったというわけだ。 キュウタとテンコ、そして佐間太郎にノゾミは、仲のいい家族みたいに遊んだ。 しかし、所詮は作り物である。キュウタは父親や母親を求めているし、大人になりたいと願っていた。彼のテンコを見る目が、苦しいほどに切実なことを佐間太郎は知っている。 ---------------------[End of Page 109]--------------------- だが、それを口に出して言うことはない。テンコも、自分が彼の母親にそっくりであることなど知らないし、このままの関係が一番いいのではないかと思われた。 ある日、キュウタと佐間太郎はいつもの公園でベンチに座り、太陽の恵みを受けていた。 ポカポカした陽気、干したばかりの布団《ふとん》の中にいるみたいだなと二人は思う。 「テンコ、まだ戻ってこないのかつ・」 キュウタは、バカそうな野良《のら》犬にケンカを売られたとかで、どこかに走って行ってしまった天使のことを言う。 「さあ?そのうち戻ってくるんじゃないのかね」 佐間太郎は、あえて軽い口調で答える。実は、日を重ねるごとに、胸の奥にひっかかりを感じてくるようになっていた。キュウタのテンコに対する気持ちは、家族に対する気持ちである。彼が家族を求める限り、テンコに対する気持ちが冷めることはないのかもしれない。恋愛だったものが、執着になるかもしれない。それはいいことではない。だが、彼ぐらいの年代の男の子が家族に執着することは、当たり前のことである。 「そういえばお前さ、テンコじゃなくちゃいけない理由がもう一個あるって言ってたろ?」 「ああ。言ってた」 「教えてくれよ」 「うん、いいぜ」 ずいぶんと素直になったものだ。佐間太郎は、持っていたコーンスープのプルトップを ---------------------[End of Page 110]--------------------- 開けて、一口だけ含む。 「テンコ、おばけが見れるんだよ」 「ブハー(全部コーン出た)!」 あまりの驚きで言葉を失う佐間太郎《さまたろう》に、キュウタはホットおしるこのプルトップを開けて、口に含んでから言った。 「お前には見えないだろ?あそこのシーソーのトコ」 そこには、無邪気に遊ぶノゾミの姿が見えた。 「ノゾミちゃんだろ?」 「ブハー(全部あずき出た)1」 「な、なんだよ、どうしたんだよ」 キュウタは鼻の穴からあずきを出しながら、信じられない、という顔で彼を見る。 「あいつはな……。幽霊なんだよ、佐間太郎」 冗談かなにかを言っているのかと佐間太郎は思った。だが、その目は真剣そのものである。どういうことだろう。テンコだってノゾミと会話をしていたし、もしかしてキュウタの方が変なのだろうか。 あらためてノゾミを見ると、やはり彼女は彼女として存在していた。ただ、泣いているのか目が少し赤いように思える。 「目が……赤い?」 ---------------------[End of Page 111]--------------------- わけもなく、あの黒い服の男が思い浮かぶ。佐間太郎はキュウタに先を促《うなが》した。 「俺《おれ》も昔から一人であの家に住んでるわけじゃない。お父さんもいたし、お母さんだって生きてた。だけど、突然お父さんがいなくなったんだ。お母さんは安心しなさいって言った。いまお父さんは、他《ほか》の女の人と仲良くしてるだけで、すぐに戻ってくるからって。だけど、いつまで経ってもお父さんは戻ってこなかった。お母さんは一人で俺を育てた。そして、少しずつ体を壊していった」 佐間太郎は、彼の鼻についたあずきを指で取ってやる。嫌がるそぶりは見せなかった。 「お母さんが入院した日。一人で家に帰ってきたら、あいつが家にいたんだ。真っ赤な目をして、寂しそうにして座ってた。最初はどこのどいつだぢうって思ったけど、アイスをあげたら食べた。、それで仲良くなったんだ」 子供らしい交流の仕方だな、と佐間太郎は思った。 「それからずっとあいつは俺の家に居つくようになった。あんまりしゃべらないし、なにを考えているかわからない。だからあんまり相手にしなかったんだ。お母さんの病気も悪化していって、それどころじゃなかったしね。、でもある日、あいつは紙切れを取り出した。 クシャクシャのメモに、202って書いてあった。それは、お母さんの病室だったんだ。 なんでそんなこと知っているんだろうって不思議に思ったよ。それで、とりあえず連れて行くことにしたんだ。病院についたら、お母さんは体中にチューブがついてた。ビックリして抱きついたら、先生に怒られた。先生は、最後になにか言いなさいって言った。最後 ---------------------[End of Page 112]--------------------- ってなんだろうって思った。お母さんは言った。 キュウタ。お父さんは絶対に帰ってくるから安心しなさい。 あなたが大人になって、お嫁さんをもらったら、きっと帰ってくる。 お母さんは少し眠るけど、また目を覚ますからね。 それまで、そこのお嬢さんに仲良くしてもらうのよ。いい? ねえお嬢さん、あなたにキュウタをお願いするわね。 この子のこと、面倒みてね。 そう言うと、あいつはお母さんの枕元《まくらもと》に近寄って、頬《ほお》にキスをしたんだ。その瞬間、お母さんは長い眠りについた。まだ眠ってるって先生は言うけど、一度も見たことないからね。きっと、死んじゃったんだよ。俺《おれ》はお母さんに抱きついた。先生たちは俺をお母さんから引き離した。俺のお母さんなのに、みんなが俺から離すんだ」 佐間太郎《さまたろう》は長いキュウタの話を聞いて、確信した。悪魔だ。彼の母親を殺したのは、間違いなく、悪魔だ。ノゾミは、悪魔だったのだ。 ただ、今のノゾミから悪魔らしさはさほど感じられない。どこまでも純粋な少女に見える。きっとなにかわけがあるのだろう。キュウタは続ける。 「俺は病院の廊下で泣いた。死ぬほど泣いた。 ---------------------[End of Page 113]--------------------- その時にあいつがやってきて、俺に言ったんだ。あいつの目は真っ白になっていた。なにか、夢から覚めきってないような、不思議な目をしていたんだ。 『お前はなにが望みなんだ?お前の望みは?』 『お前、なに言ってるんだ?なんだよ、なんなんだよ1』 『あたしは、あんたの、母親の、魂を、いただいた。だけど、あんたの母親は、あんたを置いて死ねなかった。いま、あたしの体に、魂がある。その魂が、望んでる。あんたの望みを聞けって、そう言ってる……』 なんだか様子がおかしかった。俺にはあいつの言っている意味がわからなかったよ。俺は、あいつの小さな体に抱きついた。のどが裂けるほど叫《さけ》んだ。 『もう家族が消えるのは嫌だ1俺の前から人が消えることなんて、これ以上嫌だ1お前は俺の妹になってくれ。そして、俺からずっと離れないでくれ。それが俺の望みだ』そしたら、あいつの顔色が変わった。表情が、優しくなったんだ。それから、今まで聞いたことのない幼い声で言った。 『わかったわ。あたしは、あなたの、ノゾミに、なるよ』 先生たちが騒ぎ出した。俺が幻覚を見てるってね。そう、ノゾミは俺にしか見えなかったんだ。でも、確かに存在した。俺は、先生たちの方がおかしいんじゃないかと思った。 ---------------------[End of Page 114]--------------------- でも違った。それから学校にノゾミがついてきても、あいつのことは誰も気づかなかった。 誰も見ることができなかった。本当に俺にしか見えなかったんだ。悪い大人がきて、家から追い出そうとした時も、ノゾミが助けてくれた。あいつは、俺とお母さんだけが見えるノゾミだったんだ」 佐間太郎《さまたろう》は話を聞きながら、頭の中で整理をした。キュウタの母親は病気で長くなかったのだ。それを狙《ねら》って、彼の家に悪魔がやってきた。だが、母親は生死の境で、本来は見えないはずの悪魔を見てしまった。そして、その悪魔に、自分の息子への願いを、想《おも》いを、託してしまったのだ。悪魔は母親の魂に乗っ取られる形で、キュウタの望み通りの姿になった。それが、あの、ノゾミなんだ。ノゾミはキュウタを助けるためだけの存在に今はなっている。だから、普通の人間には見えない。、 「そうか。それで最初にテンコがノゾミちゃんを見た時に……」 「そうだよ。お母さん以外にノゾミを見ることができる人がいるなんて……。しかも、テンコはお母さんそっくりなんだ。俺は思ったよ、これで後は俺が大人になって、お嫁さんを貰《も凸り》えば、きっとお父さんが帰ってくる。それでまた幸せな世界に戻れるんだ」 そう言って少年は、複雑な顔をして黙り込んだ。 「なあ佐間太郎、お前やテンコは、なんなんだ?どうしてノゾミのことが見えるんだ?今まで、お母さん以外、誰にも見ることができなかったノゾミを、どうして見られるんだ?お前らは、なんなんだ?」 ---------------------[End of Page 115]--------------------- なんなんだ。 「なにって、俺は佐間太郎。あいつはテンコ。お前の友達だろ」 佐間太郎は、ごくシンプルに答えた。嘘《うそ》はなかった。 「……友達か。はは」 「ちょっとごめんな」 佐間太郎はスープの缶を置いて、シーソーで遊んでいるノゾミの元へと向かった。 腰を屈《かが》めて、決して目は逸《そ》らさずに、彼は言った。 「お前、もう目覚めはじめてるのか?」 ノゾミは少しおどけた顔をして「わかんない?よ?」と答える。だが、その表情の隙間《ま》に、テレビの砂嵐《すなあらし》の中に映像が見えるように、恐ろしいなにかが現れる。それは、心の声を使って佐間太郎に話しかけてきた。 『失敗だったよ。あいつの母親の魂を奪ってやったんだけどね、随分と純粋でね。曇りが一点もなかった。あたしは、あいつの魂を吸い込んだ途端に、息が詰まった。やられる、って思ったね.、それからはあいつの言う通り、普通の人間には姿が見えない妹のノゾミとして心のよりどころになってるのさ』 ひどくかすれた低い声は、耳に砂利《じやり》が入ってくるようだ。 『お前は悪魔なのか?』 『あたしは悪魔だよ。だけど、もう体も動かせないし、声も出せない。あいつの母親に乗 ---------------------[End of Page 116]--------------------- っ取られたようなもんさ。でもね、少しずつだけど戻ってきてるよ』 そう言ってノゾミは、佐間太郎《さまたろう》の手をそっと掴《つか》んだ。恐ろしく冷たい。 『あいつ、テンコって女によっぽど執着があるみたいだね。テンコをあんたから奪いたいって気持ちがゆっくり戻ってきてる。そして、家族の下《もと》に戻りたいって。元の幸せな家庭が欲しいって。あんた知らないだろうけど、まだ泣いてるよ。あいつ、一人になればずっと泣いてるよ。テンコさえいれば、テンコさえいれば、ってね』 振り向くと、テンコが犬とのケンカから戻ってきてキュウタと遊んでいるところだった。 彼はひどく無邪気に、子供が母親にじゃれるようにしてテンコに抱きついていた。 『感じるかい?痛みが。聞こえるかい?あいつの悲鳴が』 ノゾミの目の奥で、鮮血がノイズのように走る。 『それにしても、あんたも、あのテンコってのも、あたしが見えるなんて、一体どういうことだい?人間じゃないんだろ?正体を教えなよ』 佐間太郎は心の声とは裏腹に、ニコニコと笑っているノゾミの頭を撫《な》でて言った。 「俺《おれ》?俺は神様。あいつは天使。ま、どっちも修行中だけどな」 「まあ、というわけなんだよ」 その夜、神山《かみやま》家の食卓では、困った時の神山家会議がパパさんを除く全員出席で行われていた。銭湯に行くぐらいなら、こういう会議に出て欲しいものである。だがしかし、そ ---------------------[End of Page 117]--------------------- こにも神の意思が介在しているのであろう。 佐間太郎はテンコに真実を話そうかどうか迷ったが、悪魔が絡んできていては仕方がない。久美子《くみこ》は彼の話を真剣に聞き、相槌《あいつち》を何度も打った。途中で「クイズは嘘《うそ》ですか」と、ちょっと残念そうに言ったその手には「博士の問題集」というコピー用紙をホチキスで束ねたものがあったという。 「じゃあママさんが話をまとめると」 コタツを背負ったまま、ママさんがコホンと咳払《せきばら》いをした。 「メメちゃんは、勝手にママさんの部屋に入って本を持っていったので、女神としてマイナス。マイナス6メガーミぐらいかな」 「ごめんなさい」 メメは素直に謝ったが、話題が全然違う。そもそも、その6メガーミという単位はなんなのだ。基準がわからないだけに、評価にどう響くのかすらもわからない。 「で、あのキュウタは家族がいなくて、今は母親の魂でただの子供になってるノゾミちゃんってのが唯一の友達なのよね?」 「ああ、そうだ。ただ、ノゾミちゃんの中には悪魔がいる。だから、このままにしておくのは危険だと思うんだけど」 佐間太郎の発言に、久美子は恐縮する。彼女は元々は悪魔だったが、今は人間と天使のハーフということになっている。立場的に微妙なのだ。 ---------------------[End of Page 118]--------------------- 「あ、ごめん。別に久美子《くみこ》さんのことをどうこう言うわけじゃ……」 「ううん、いいんです。過去は過去として存在するし。それをどうこうって……」 「うっせ、チョロ美」 二人が言いにくそうにしているところに、ママさんがパシッと一発喝《かつ》を入れる。 「あんたは今うちの家族でしょ?もしまた悪魔になったら、みんなでどうにかする。それが家族だからね。だから、あんたの話題は今はいーの。ウザいし。なにその博士の問題集って。プ。正直、プ」 「ひっ」 問題集の存在を指摘され、赤面する久美子。ママさんはコタツの中に頭を引っ込めて、グゥグゥとイビキをかきはじめた。 「お、おいっ!オフクロ!なんで寝るんだよ!まだ話は終わってねえだろ1」 「いーんや。終わった終わった」 興味なさそうにしていた美佐《みさ》が、スクッと立ち上がる。さすがのメメも、その様子に少し驚いたようだ。 「だってさ、キューちゃんはその子だけが頼りなんでしょ?だったらいいじゃん、一緒にいれば。なんの問題もないんじゃん?」 「問題はありますっ1」 それに反論したのはテンコだ。 ---------------------[End of Page 119]--------------------- 「キュウタくんは、あたしに母親の影を重ねています。それじゃ困りますよ。もしあたしが原因でノゾミちゃんが悪魔に戻ったら、どうするんですか?」 「いや、だから問題ないでしょ?あんた、わかってるじゃない」 美佐は意味深《しん》に笑って、テンコに顔をグイッと近づける。 「テンコはテンコ。キューちゃんママはキューちゃんママ。それは別人。それが現実。それをあんたらが教えてあげればいいのよ。なにをどうすればいいかなんて、もうわかってるじゃないの。なにも話し合うことはないよ。後は問題が起こった時に考えればいいだけ、オヤスィミー」 手をヒラヒラと振りながら、彼女は自分の部屋へと戻って行った。確かに言われてみればその通りである。悪魔云《うんぬん》々以前に、今問題なのは、テンコが手に入れば家庭が元に戻ると思い込んでいるキュウタ自身なのだ。 「かわいそうだと思う」 律儀に手を挙げてからメメは続ける。 「仲良くしてるのを、離れ離れにしたらかわいそう。以上です。おやすみなさい」 彼女も自分の意見を言ってスッキリしたのか、そのまま二階にある部屋へと向かった。 残されたのは当事者であるテンコと佐間太郎《さまたろう》、そして元悪魔の久美子だ。やはり久美子は他人事《ひとごと》とは思えないらしく、この席からは離れられない。 「わたしが、悪魔だった時のことを申しますと」 ---------------------[End of Page 120]--------------------- 遠慮がちに彼女は語りだした。、 「悪いとは思ってないんです。だって、世の中にはたくさんのことがあって、こっちから見たら正義でも、向こうから見たら悪にもなるじゃないですか。だから、キュウタくんもあっちにいるんじゃないかと思う。わたしはあっちからこっちにきたから、こっちのみなさんと一緒にいるけど……」 ほんの少しだけ言いにくそうに眩《つぶや》いた。 「こっちが良いっていうのは、心地よいからだし、わたしも納得してるから。でも、もしこっちが悪くて、あっちが良いって言う人が現れて、あっちがすごく心地よかったら、こっちからあっちに行っちゃうかもしれないって、あっちこっち?あれれ?」 自分で言いながら混乱してきたのか、彼女の目がグルグルと渦《うず》を描いている。 「ご、ごめんなさい。考え過ぎで頭痛くなってきたから寝ますね……」 とほほ、と言いながら彼女は立ち上がった。だが、去り際に、とても実感のこもった口調で、こう、断言した。 「でも、わたしは、絶対に、こっちがいいと思います。だって、神山《かみやま》くんもいるし、テンコさんもいるし、みんなもいるから……。おっ、おやすみなさい」 これで残されたのは、佐間太郎《さまたろう》とテンコだけである。二人は見つめ合って、同じタイミングでため息を漏《も》らした。 「結局あれか、キュウタに現実を教えなくちゃいけないってことか?」 ---------------------[End of Page 121]--------------------- 「うん。もしあたしと結婚しても、お父さんが帰ってくるかわからないこと。そして、あたしはあたしであって、キュウタくんのお母さんじゃないってこと」 「荷が重いなあ……」 グイッと背筋を伸ばし、佐間太郎は言った。 テンコはそんな彼を見て、決して楽観的な事態ではないのに安心した気持ちになる。 佐間太郎と一緒にいなかった数日間、どれだけ寂しかったことか。どれだけ不安に思ったことか。今はここに彼がいる。それだけで嬉《うれ》しくなる。 「ん?お前、なに笑ってんだよ」 「え?別に。笑ってないよ。えへへ」 「……こんな事態だってのにさ。まあいいや。明日、あの二人に会ってわかってもらおうぜ」 「うん、そうだね。現実を知ることが大人になることなのかもしれないし。……あっ」 ─「どした?」 「そういえば、遊園地って言ってたね」 「え?デートなんてしねえぞ」 「そうじゃなくて、キュウタくんもデートなら遊園地って言ってたから。一緒に行って、そこでお話ししない?」 「そうだな、そうするかあ。わかった。じゃあ今日はもう寝ようぜ」 ---------------------[End of Page 122]--------------------- 「うん、おやすみなさい」 「あいよー」 佐間太郎《さまたろう》は、久美子《くみこ》のいる三畳ルームへと向かう。いつもと変わらない足取り。以前となにも変わらない調子。それなのに、なぜかテンコは前よりも嫉妬《しつと》心を感じることはなかった。理由はわからない。天国での数日間が、彼女にある種の確信めいたものを与えたのだろうか。 「きゃー!神山《かみやま》くん1いま着替え中!(二階で悲鳴)」 「うわっ1ごめん!久美子さん1ピンクのチェックがあああ!(二階で動揺)」 「プシュi!(一階で激怒)」 あるいは、なにも変わっていないのかも。 「なっつかしー!見て見て!ほら、あそこ、佐間太郎が久美子さんにデレデレしてたとこ1」 「う、うるせえ……」 やってきたのは、地元の駅から電車で一時間ほど揺られ、さらにタクシーで移動した、屋内プールがメインのレジャー施設である。 着くなりキュウタが早速二人に文句を言った。 「なんでプールなんだよ。今、冬じゃねえか。寒いだろっ」 ---------------------[End of Page 123]--------------------- 「ふふーん。大丈夫よ、キュウタくん。冬も温水プールだし、泳がなくても遊園地的な乗り物がたくさーんですよi!」 「マジでえH」 遊園地と聞いて、本気で嬉《うれ》しかったのか、キュウタはちょっと甲高《かんだか》い声で叫《さけ》んでしまった。それを見て、複雑な気持ちになる佐間太郎とテンコに向かって、彼はゴホッと咳払《せきばら》いをする。 「フン。遊園地か、まあベターな選択だな。悪くない。一回も来たことないし」 一度も遊園地に行ったことがない。小学生としては珍しいと言えるだろう。.だが、彼の家庭環境を考えるとそれも無理はない。思わず涙ぐみそうになる二人を見て、少年は戸惑《とまど》って毒づいた。 「な、なんだよ1俺は大人だからな1だから嬉しいわけじゃないからな!ほら、行くそ、ノゾミ1」 「うんっ!」 彼はノゾミの手を引っ張り、入場ゲートへと向かった。 今までは大人ぶっていることが煩《わずら》わしく感じることもあったが、今日は逆である。今日こそ、彼には大人になってもらわなくてはならないのだ。 「すみません、大人一枚」 だが、ゲートで受付の人に「子供料金で入れるよ」と言われている姿は、笑えた。 ---------------------[End of Page 124]--------------------- 室内のプール施設を抜けると、その向こうには遊園地が広がっていた。ジェットコースター、フライングパイレーツ、コーヒーカップ、観覧車。お客さんは思ったよりも多く、親子連れやカップルなどで賑《−≒−》わっていて活気もある。 キュウタにとっては、それら全《すべ》てが初めて見るものであった。 「うおおお!すげええええ!でけえええ!たけえええ1はええええ!」 純粋に興奮する彼を見て、テンコは切ない気持ちになってくる。 ごめんね、あれからもキュウタくんの視線の意味には気づいていたよ。だけど今日、あたしはあなたのお母さんじゃないことを説明しなくちゃならない。理解してもらわなくちゃいけない。だから、あたしは、そこまではしゃげないんだ。 「うおー、テンコ1走れ馬女ゲームあるぞ1」 「えええっP本当に19 テレビで人気の19一わーいわーい!」 はしゃいでるじゃねえか。佐間太郎《さまたろう》は、テンコの楽観的な性格に哀愁すら感じながら思うのであった。それと対照的に落ち込んでいるのは、ノゾミである。今日がなにか特別な日だということを、彼女は直感的に理解しているようだった。 佐間太郎もテンコも、このノゾミをどうするか決めかねていた。それは結局、キュウタの気持ち次第なのだ。それから彼女のことは考えよう。 「おーいテンコ1射的ゲームやろうぜ!佐間太郎もきていいそー!ノゾミも来いよ!」 ---------------------[End of Page 125]--------------------- キュウタに言われて、。二人は射的ゲームのエリアへと移動する。ヌイグルミやゲームソフトなどが棚に並んでおり、コルクの弾の空気銃で撃ち落とすルールだ。落ちればそのまま賞品を持って帰れるが、なかなか当たらない。当たっても倒れただけではダメで、棚から落ちなければいけないのだ。 「佐間太郎、射的で勝負だ1俺《おれ》はあの猫のヌイグルミをゲットするぜ1テンコ、もし当たったらプレゼントしてやるからな!」 「俺はあの犬の時計にしてみっかな……」 「よーい、ドンッ1」 テンコの掛け声に合わせ、キュウタは空気銃を連発する。だが、当たりはするものの棚から落ちてはこない。どうやら、重量があるらしい。彼は係員にチケットを渡し、もう一度挑戦しようとしていた。猫のヌイグルミをあきらめ、他《ほか》の的《まと》を狙《ねら》うようだ。佐間太郎はそんな彼を尻目《しりめ》に、なんなく時計を棚から落とした。 「はいお客さん上手《 つま》いねー。はい、これポチ時計」 「あんがと」 佐間太郎は時計を受け取ると、すぐに自分のポケットにしまった。期待していたわけではないとはいえ、テンコは少し残念に思う。 「おい、オヤジ!インチキじゃねえのか1こっちの的、動いてるぞ!」 「言いがかりはやめてくれよ、そんなわけないだろ?相手は置物だぞ?」 ---------------------[End of Page 126]--------------------- 「でもさ、当たらねんだよなあ……」 係員のおじさんに、なかなか賞品を落とせないキュウタが文句を言っている。 その時だ。なんの前触れもなく、テンコの心に声が届いてきた。 『……テンコよ……テンコ……よ』 この低く威厳《いげん》のある声。間違いない、これは、あの大天使の声だ。 『テンコよ頼みがある。聞いてもらおうか』 どこから彼女に対してテレパシーを送っているのだろうか。テンコは恐る恐る聞き返す。 『な、なによ……。言ってみなさい』 大天使は、一呼吸置いてから、ゆったりとした口調で言った。 『撃たれるよお。怖いよお』 やっぱりか。テンコは迷うことなく、キュウタが狙《ねら》っている棚に視線を送る。 そこには、ブタの貯金箱というプレートを貼《は》られたスグルが、プルプルと小刻みに震えているのが見えた。 『なんでここにいんの!そして、なぜ賞品に!』 『なんの因果だろうか。うむむ。いたっ!ね、尺ちょっと見たP”今、足に当たった1足に当たったよ11”』 『うるさい!キュウタに撃たれてろ1』 キュウタの背後でブンバカ両手を振り回しているテンコを見て、さすがに様子がおかし ---------------------[End of Page 127]--------------------- いことに気づいたのか佐間太郎《さまたろう》が声をかける。 「どした、テンコ」 「いや、あのブタ見てよ」 もちろんテンコの指の先には、ブタに羽がついた貯金箱があった。スグル。 「なんでここに?つうか、あんなに冷や汗ダラダラかいててバレないのか?」 「バレるでしょ1どうするつもりなんだろ、もう」 『テンコよ、当てる振りだけしてくれ。自分で落ちるから』 『ええいっ、手間のかかるっ』 彼女は佐間太郎の残した弾を使って、スグルに照準を合わせて引き金を思い切り引いた。 空気圧によって飛び出したコルクは、スグルの額のど真ん中に当たると、勢いよく棚から転げ落ちるのであった。 『……わざと?』 『違うわよ!たまたま当たっただけよ1あんたがここにいるのが悪いんでしょ1』 テンコは係員からスグルを渡されると、すぐに持っていたカバンの中に押し込んだ。 『で、なんであんたがいるの?』 『ふふ。一応悪魔との行動ゆえ、万が一の場合はスグルが!』 『スグルがって、あんた逃げることしかできないでしょ……』 『あとは……的確なアドヴァイスが』 ---------------------[End of Page 128]--------------------- 『今度喋《しやべ》ったら、その瞬間に叩《たた》き割るからね』 『…………』 『ふんっ』 という悪意に満ちた心の声を交わした後で、テンコはニッコリと笑って一行に言った。 「さ、次はなにしようかにゃー?」 が、キュウタのテンションはガタ落ちであった。なにせ、彼だけなにも賞品を取れなかったのである。佐間太郎はやれやれと思いながらも、パークの中で一番目立つライド、観覧車を指差した。 「おう、あれ乗ろうぜ」 「あ、その前に俺《おれ》、トイレ」 キュウタはパークのトイレに、小走りに走って行った。 トイレの入り口の前には黒い服の男がいた。相原《あいはら》だ。 彼はキュウタを見つけると、ニコッと道化師的な笑みを浮かべて近づいてきた。 「なあキュウタくん。今日きみにどんなことが起こるかわかりますかつ─」 「え?なんだよ、なんであんたがここにいるんだよ」 「いいから質問に答えてくれますか?」 「そんなの知らないよ、俺はトイレに行くんだから」 ---------------------[End of Page 129]--------------------- 少年は彼の吝葉を無視して、男子用トイレに入ろうとする。が、その肩を掴《つか》み、筋肉ごと引き剥《は》がすような言葉を相原《あいはら》は言った。 「捨てられるんですよ」 心臓が止まるかと思った。実際、数秒ぐらいは止まってしまっていたのかもしれない。 パークの軽やかなBGMや喧騒《けんそう》が耳から消え去り、彼の言葉だけが重苦しく聞こえた。 「きみのお父さんは、浮気をして戻ってきません。お母さんは死んでしまいました。今、やっと見つけたテンコも消えようとしています」 「どういうことだよ」 相原は、キュウタ少年の言葉には答えずに、一粒の黒いキャンディを渡した。 「耐えられなくなったらこれを噛《か》み砕くんです。そうすればきみは、こっちの世界へくることができます。これは、大人になるための薬です」 「こっち?こっちって、どっちだよ」 「痛みや苦しみ、寂しさ、その全《すべ》てとさよならができる世界です」 「そんな世界……」 渡されたキャンディから顔を上げると、もうそこに相原はいなかった。 「なあ、テンコ。大丈夫だろうな?」 「え?なにが?」 ---------------------[End of Page 130]--------------------- 「なにがって……」 話の途中で、すぐにキュウタは戻ってきた。妙に青い顔をしている。 「あれれ?どしたのキュウタくん、みんなであれ乗ろう!」 テンコはさりげなく少年の手を握り、元気付けようとする。が、すぐに佐間太郎《さまたろう》の心の声が彼女に届いた。 「バカ、二人で乗れ。そんで、例のこと説明しろ。あいつを大人にしてやれ』 『あ。そっか。遊びにきたんじゃないもんね……』 コホン、と気を取り直し、テンコはキュウタの手をゆっくりと離す。 「二人で乗ろうか、キュウタくん」 「えー9”マジPふふ、お前もようやく俺の魅力に気づいたようだな」 「ううん、違うの。大事なお話があるの」 「お話?」 佐間太郎はノゾミの手を握って、キュウタの後をついていかないようにする。いつも自分勝手に遊んでいる彼女だが、今日はわざと一歩引いてる気がしないでもない。 「ノゾミちゃんは、そこのベンチで俺とお留守番ね」 「おるすばん?するの?」 「うん。じゃ、手を振ろうか。ばいばーい!」 「ばいあーい1」 ---------------------[End of Page 131]--------------------- 観覧車の乗り口で、テンコとキュウタが手を振っているのが見える。そして、二人だけの密室へと乗り込む。お客さんで混雑しているわりには、すんなりと乗れた方だ。巨大な観覧車は、多くの人を乗せてゆっくりと空中を回転している。 観覧車近くのベンチに座ると、ノゾミが物欲しそうな顔でジュースの自動販売機を眺《なが》めていた。仕方ない、と彼は小銭を少女に渡し、自分はそのまま園内を見渡す。 カラフルな園内で、一人だけ全身黒尽《ず》くめの男が立っていた。もしかして、いつかの朝の、あの男だろうか。もう一度よく見ようとしたが、すでにその場所に男はいなかった。 ただの従業員かもしれない。気にし過ぎだ。 「ただいま」 ノゾミは苺《いちご》ミルクを買ってきてうまそうに飲んでいる。 「んまんま」 「そっか、よかったね」 「あのね」 ぶはっ、と息を吐き出してから、ノゾミは佐間太郎《さまたろう》に向かって言った。 「ありがとう、さまたろう。きゅうたのことをめんどうみてくれて」 「は?」 別の誰《だれ》かがノゾミの中から声を出したように思えた。あるいはそれは錯覚なのかもしれない。だが、あの悪魔の声でないことは確かだ。もっと優しく、温かい。 ---------------------[End of Page 132]--------------------- 「もう。だめ。げんかいがきてるの。くるよ。すぐにくるよ」 「な、なんだよ。ノゾミちゃんなのか?それとも?キュウタのお母さんp.」 「くるよ。あくまがくるよ。さまたろう、あくまがくるよ」 少女は口の周りを、ピンク色の液体に濡《ぬ》らし繰り返した。 あくまがくるよ。 観覧車を見上げると、さきほどテンコとキュウタの乗ったゴンドラが遥《はる》か頭上で揺れているのが見える。 テンコが窓から外を見ている。景色を眺めている、というのではなく、逃げ道を探しているような表情だった。彼が彼女を見つけたのと同様、テンコも地上の佐間太郎の姿を見つけたのだろう。喜びとも安堵《あんど》とも取れる顔で、口を開けた。 その口の動きと合わせ、彼の心に声が届く。 『た』 『す』 『け』 『て』 最後の言葉と同時に、二人の乗っているゴンドラの中で爆発が起こった。 ゴンドラの中で、夜が生まれたような爆発である。一瞬で窓ガラスの全《すべ》てが黒く塗りつぶされ、中の様子がわからなくなった。バケツに入ったインクを、窓に向かって叩きつけ ---------------------[End of Page 133]--------------------- たようなものだ。 「テンコ1キュウタ1」 佐間太郎《さまたろう》はノゾミを係員に預け、観覧車へと走り出した。 「ほら、キュウタくん、手を振ってるよ?」 ゴンドラに乗る直前、遠くで佐間太郎とノゾミが手を振っているのが見えた。 彼女は嬉《うれ》しそうに振り返すが、キュウタはそうはいかない。大事な話というものが、自分にとってポジティブなものとは到底思えないからだ。 狭い乗り口をくぐると、すぐに係員の手によりドアが閉ざされる。独特のゴトゴトという振動と共に、あっという間に地上は遠ざかる。 四人乗りの中に、二人は向かい合うようにして座っているが、乗り込んできてから無言のままだ。テンコは、どのタイミングで彼に話を切り出そうか迷っていたが、回りくどい説明をしても無駄だと腹をくくった。 「あのね、キュウタくん」 そう言われ、彼は体を硬くする。顔色が真っ青だ。これからなにを言われるか、全《すべ》てを理解しているようにも思えた。 それでもテンコはキュウタに伝えなくてはならない言葉がある。 たとえ相手がわかっていても、どうしても言っておかなければならないことがある。 ---------------------[End of Page 134]--------------------- 「キュウタくん。あたしと結婚してもお母さんもお父さんも帰ってこないんだよ」 苦しい。 「あたしとお母さんは違う人なの。だから、もしお父さんが帰ってきても、喜んでくれるかわからない。もう、元の家族には戻れないの」 悲しい。 「あなたはこれから、あたしとお母さんを一緒にしないで、ちゃんと理解して、一人で生きていかなくちゃいけないの」 寂しい。 「もちろんそれは、あたしがあなたとの関係を終わらせるってわけじゃないのよ?これからもずっと友達。それを間違えないでね。ただ、あたしとお母さんは別人なの……。それをわかることが、大人になるってことなのよ?」 「うるさいーー」 「きゃあっ!」 キュウタはゴンドラの中で立ち上がった。その勢いで、ゴンドラが大きく傾《かたむ》く。 「あいつの言った通りだ1テンコも俺《おれ》を捨てるんだ1みんなそうやって俺の前から消えていくんだ1ノゾミにお願いしたのに!もう二度と一人は嫌だって言ったのに1それなのに、そんな簡単な望みだってかなえてくれない!」 「キュウタくん……」 ---------------------[End of Page 135]--------------------- 叫《さナ》ぶ少年に、彼女は怒鳴《どな》り返した。 「大人になることは受け入れること。悲しいことも辛《つら》いことも、逃げないで、受け入れること。だけどそれで泣いてもいいの。悲しくなってもいいの。ただ、逃げちゃダメ。受け入れて。だって、どんなに悲しくたってあたしがいるもの!佐間太郎《さまたろう》もいる!ママさんも美佐《みさ》さんもメメちゃんも久美子《くみこ》さんも、それに、パパさんだっている!あたしたちがいれば、大丈夫1あなたは強く生きていける1」 「強くなんてなりたくないよ!俺《おれ》はただ、元に戻りたいだけなんだ1大人になんてなりたくない、子供のままでいい1ただ、元に戻りたいH」 彼はポケットから真っ黒いキャンディを取り出すと、投げつけるようにして自分の口に放《ほう》り込んだ。その様子が尋常じゃないことを察し、テンコは窓の外に助けを探す。 遠くに佐間太郎が見えた。彼も同じようにこちらを見ている。 ガリッ、という砂を噛《か》み潰《つぶ》すような嫌な音がゴンドラの中に大音量で響き渡る。 テンコは口を大きく開けて、助けてと叫んだ。が、その声はキュウタの口の中から吹き出した暗闇《くらやみ》に飲み込まれた。 「キュウタくん、なにを食べたの?」 彼はすでに彼ではなかった。全身が影のように黒く、目だけが真っ赤に光っている。 「大人になるための薬さ」 半紙に染《し》み広がる墨汁のように、ゴンドラの内部が暗闇に侵食されていく。キュウタは ---------------------[End of Page 136]--------------------- 全身を真っ黒の影に染め、どこからが彼でどこからがそうでないのかわからない。 怖かった。震えて、声さえ出なかった。しかし、テンコは言った。 「大人になるための薬なんて、どこにもないよ。あなたは、あなた自身で、大人になっていくの。辛いことから逃げちゃダメ。もっとあたしをよく見て」 ゴンドラの内部は、既に漆黒《しつこく》に塗りつぶされていた。夜だ。世界中で、一番深い夜がここに生まれたのだ。テンコの言葉を聞いたからか、その闇夜《やみよ》の中で赤い目だけがゆっくりと彼女に近づいてくる。 「テンコ、結婚してくれよ。ほら、俺は大人になったぜ。デッカクなったぜ。世界中の夜と一緒だ。俺と結婚したら、こっちの世界に連れてってやるよ。痛みも悲しみも辛いこともない、こっちの世界へと。全《すべ》ての痛みとさよならしようぜ……」 爆発するような勢いでゴンドラのドアが開いた。暗闇の世界にかけられた一枚の絵画のように、外の世界が広がっている。地上は遥《はる》かに遠い。天使のテンコでも、悪意に染められた彼の手によって落とされたら即死であろう。 真っ黒い手により、絵画の中へと頭が押し込まれる。突風が顔を煽《あお》る。こっちが本当の世界なんだ。 「この絵は、あっちとこっちを結ぶ扉だ。あっちに行けばこっちに来れる。不思議だろ?テンコ?大丈夫だ、一瞬でさよならだ。この世界ともさよならだ。そして、俺と一緒に暮らそう。お父さんとお母さんと、テンコと、ノゾミとでな」 ---------------------[End of Page 137]--------------------- ノゾミ。 「ノゾミちゃんP」 テンコの目の前には、ノゾミがいた。彼女は不敵な笑みを浮かべながら、ゴンドラの目の前に不思議な力で浮かんでいる。ノゾミには黒い羽が生え、お尻《しり》からは邪悪な尻尾《しつぼ》が生えていた。顔つきも鋭《するど》く、まるで別人のように思えた。彼女はいつの間にか、真っ赤なワンピースを着ていた。これが本来のノゾミ。悪魔としての望み。 「あんたさ、天使なのに空も飛べないんだろ?なにも力がないんだろ?だったら死んだ方がいいんじゃないのか?」 背後からは、黒い影がゆっくりとゴンドラの外へとテンコを押し出す。胸の辺りまで出ると、両腕がダランと空中へと垂れ下がった。彼女は死を予感した。 「ノゾミちゃん、悪魔になっちゃったんだね」 それでもテンコは気丈に振る舞い、ノゾミに話しかける。 「そうだね。そこのボウヤのおかげだよ。全《すべ》てから逃げたいって負の力が爆発したからね。 あたしの中にいた母親の心なんて、消し飛んださ」 観覧車は事故ということにより、一時停止している。こんな状況では誰も助けてはくれない。テンコは思い切って、全身の力を抜いた。ズルズルと体は外の世界へと引きずり込まれ、腰辺りまでが外気に晒《ζ「・b》される。 「覚悟したか、テンコ?お前はテンコであり、俺《おれ》のお母さんだ。だから、俺と一緒にあ ---------------------[End of Page 138]--------------------- っちに行くんだ」 「けけけけけ。いい気味だね。天使が死ぬとこ、見れるんだね」 キュウタだった悪意の塊《かたまり》と、ノゾミだった悪魔は、処刑を楽しむようにして彼女を弄《もてあそ》んだ。パニックになっているからだろう、テンコは呼吸さえ上手《▼つま》くできない。 引きつるような息をしながら、テンコは笑顔を作って言った。 「前半は省略するね。今から体操します」 「体操?」 キュウタも悪魔も、彼女がなにを言い出したのかわからなかった。悪魔はテンコの言葉を遮《さえぎ》るように叫《ぢロけ》ぶ。 「いいから落としちまいな1この天使を殺して、あっち側の世界に送るんだ1」 「キュウタくん。恋愛体操って知ってるかな?」 「聞くな!天使の戯言《ざれごヒ》なんて聞くんじゃないーーこ 少年は、暗くて狭い場所にいた。そこがどこかはわからない。ただ、勝手に体が動く。 体という意識はない。自分の影がどこまでも伸びて、夜の始まりと繋がっているような感覚。その感覚の中で、テンコの声が聞こえる。心に染《ロリ》みこむ。 「ゆっくりとゆっくりと目を瞑《つむ》って」 「キュウタ!聞くんじゃない!落とせ!落とすんだ1」 ゆっくり。ゆっくりと目を閉じる。暗闇《く─っやみ》は密度を変えずに、ただ暗闇として存在する。 ---------------------[End of Page 139]--------------------- ここからはもう、テンコの声しか聞こえなかった。 「好きな人のことを考えて。深く、すごく深く考えて」 好きな人。頭の中にテンコが浮かんだ。そう、テンコと結婚すれば俺《おれ》撒幸せになれるんだ。テンコが近づいてくる。あの笑顔、そうだ、テンコだ。テンコが暗闇《くらやみ》に浮かぶ。 彼女は少年に向かって、こう言った。 「好きな人とどうしたいか、どうなりたいか、それを考えながら腕を開いて」 好きな人と結婚したい。そして家庭を取り戻したい。 そしてお母さんに会いたい。お父さんに会いたい。 「あたしがわかる?キュウタ」 テンコはそう言った。わかった。わかった。 テンコだと思っていた女性は、テンコではない、彼の母親だ。 「お母さん!お母さん1会いたかったよ!」 しかし、夢の中のように上手《−つま》く歩けない。母親には近づけない。 「キュウタ。あたしは眠っているだけ。いつか会える。だから、信じて」 「嘘《うそ》だ1お母さんは死んじゃったんだ!」 「大丈夫。あなたも死んでしまうから。きっといつか、死んでしまう」 「うん」 「その間に辛《つら》いことや悲しいこと、苦しいこともあると思うわ。でもね」 ---------------------[End of Page 140]--------------------- 母親は、一呼吸を置いて言った。 「じゃあ、どうしてここにきたのかな?」 どうしてここに?ここって、この世界?今生きてる、この世界? キュウタは、ひどく湿った世界から体が滑り落ちるのを感じた。ズルン。 そこはゴンドラの中だった。テンコが苦しそうに横たわっている。 テンコは気絶しているようだった。それなのに、どこからか声が聞こえる。 「みんなを失って、一人になった。それでもここにいるのはどうして?」 新しい誰かと出会うため? 「テンコは、あなたのお母さんじゃない。あなたは、新しい誰かと出会った。それがテンコ。だから、お母さんの面影を重ねるのはよしなさい。テンコはテンコなのだから、それを理解しなさい」 お母さん。 「大人になりなさい」 世界が真っ白になった。ゴンドラの中のささやかな電灯がついたのだ。 「遅くなってごめんよ……」 半開きになっていたドアが完全に開き、外から佐間太郎《さまたろう》が入ってきた。 キュウタは驚いて彼を見つめる。だが、佐間太郎にそれほど取り乱した様子はない。 「おい、おい佐間太郎!ここ、高いそ17nわかってんのかP登ってきたのかP」 ---------------------[End of Page 141]--------------------- 「え?そうだけど。それがどうかしたの?」 「どうかって……。だって、落ちたら死ぬだろー9」 「だってテンコは俺の……まあ、友達つうか、親友つうか、家族だしさ」 それに。 「それに、お前は新しく出会った、俺の、友達。だから、助けにきた」 照れることもなく、彼はそう言って笑った。照れたのは、その後だ。 「まあ、もし落ちても俺は大丈夫だしさ」 大丈夫って、大丈夫なのか?んなわけないだろ。いや、あー。うん、大丈夫かもしれない。なにせ佐間太郎《さまたろう》とテンコは、普通じゃないんだ。きっと、どんなことでもやってのける。 「本当に大丈夫なら落ちてみる?悪魔のあたしが干渉したら、死ぬんじゃないの?」 ドアの外からノゾミだった悪魔が現れ、佐間太郎の体を強く引いた。 「うわ。マジ?」 一瞬だった。バランスを崩した佐間太郎は、ゴンドラの外へと投げ出される。 「佐間太郎っ1」 そして反射的に、キュウタが動いた。きっとなにも考えていなかったのだろう。助けるとか助けないではない。ただ、彼が落ちたら困ると思ったのだ。少年は佐間太郎の体に飛びついた。結果、二人とも地面に向かって急降下をする。 ---------------------[End of Page 142]--------------------- が、佐間太郎の右手はシッカリと悪魔の尻尾《しつぼ》を握っていた。 「落ちる時は道連れだろ?なあ、悪魔さんっH」 「なにいp”」 三人はものすごい速さで、アスファルトへと向かった。地上では、事故停止した観覧車を見ようと野次馬《やじうま》が山のように集まっていた。 「落ちたぞ!」 「危ないH」 声が聞こえてくる。体がひっかかるような場所はどこにもない。このままでは、本当に地面に激突してしまう。 「あたしはこのまま終わるのはごめんだ!体だけ置いていくよ!」 悪魔の体から、ドス黒い塊《かたまり》が飛び出した。それと同時に、羽や尻尾が焼け落ちるようにして消える。彼女はキュウタの母親でもなく、悪魔でもない、ただのノゾミになった。 「どうすんだよ佐間太郎、死んじやうよ1」 「大丈夫だ、安心しろ。俺はな、神様なんだよおっ!」 キュウタは耳が聞こえなくなったのかと思った。突然、全《すべ》ての音が遮断《しやだん》されたからだ.、そして、その数秒後に、鼓膜《こまく》が破れるほどの声が響いてきた。 落ちるな!死ぬな!大丈夫か!危ないそ!気をつけろ! ---------------------[End of Page 143]--------------------- 誰か助けてやれ!まだ子供じゃないか!あきらめるな1なんとかなるぞ1 それは観覧車の下で、三人を見つめる野次馬《やしうま》の声だった。彼らの声は、見えないクッションになって三人を包み込む。 「な、なにこれ?」 「たぶん神の奇跡。今、俺が考えた」 「神の奇跡って……お前、何様?」 「え、俺?神様だってば」 落下のスピードは次第にゆるくなったかのように思えた。人々の想《おも》いが、三人を救ったかのように。だが、冷たく、氷のようにクッションに突き刺さった声があった。 「落ちればいいのに。面白くなりそうですよ」 驚いて声の方を見ると、それはあの黒の男だった。その声は野次馬全員に聞こえるほど研ぎ澄まされていた。最初は戸惑《とまど》っていた人々の中にも、彼と同じことを考える者が出てきた。落ちてしまえば面白い。珍しい事故を見ることができる。所詮《しよせん》は他人事《ひとごと》さ。 その淀《よど》んだ悪意は、鋭《するど》い針のようになり、ゆっくりとクッションに致命傷を与えていく。 それと同時に、落下スピードも速くなる。 「おおい1神様、なんとかしてくれよ1佐問太郎《さまたろう》!」 「やべー。人間ってのは流されやすいなあ。たった一人の言葉なのになあ」 ---------------------[End of Page 144]--------------------- 三人はグングンと加速して、恐るべきスピ!ドでアスファルトへと叩《たた》きつけられそうになる。 「ちっ。大丈夫だ、俺がお前らを守ってやる」 佐間太郎はキュウタとノゾミを抱きしめるような姿勢を取った。まず最初に彼が地面に落ちる。これならば、少しは二人へのショックが和《やわ》らぐだろう。そうはいっても地上数十メートルからの転落である。命があればラッキーだ。 地面はあっという間に近づいた。呼吸が止まる。瞳《ひとみ》を閉じる。走馬灯《そうまとう》など流れてはこない。十六年?確かに色々あったけれど、それぐらいじゃ走馬灯は流れてはくれない。 佐間太郎は体にアスファルトの冷たさを感じた。激突の一瞬前である。前髪が地面に当たった。そして。 ボヨヨーン。 飛んだ。そりゃもう、バネのように飛んだ。アスファルトに激突するはずだった一.一人は、そのままトランポリンのごとく空中へと舞った。 「佐間太郎ちゃーん1ママさん置いて遊園地なんてズルーイっ!」 温かくて柔らかいクッション。コタツ姿で、佐間太郎たちを追いかけてきたママさんの気持ちだった。 ビヨーン。 「あらあらみなさん、わたしの弟がご迷惑をおかけ致しまして..おほほ」 ---------------------[End of Page 145]--------------------- 美佐《みさ》の、外面《そとづロっ》のいい丁寧なクッション。だが、気持ちはバッチリこもっている。 「……クラゲいる?」 ぴょうろん。 メメのクールで小さなクッション。 「……テンコさんとデートですか?」 ぽすん。 久美子《くみこ》のクッションは、そのまま彼女の膨《ふく》れた頬《ほお》ていどであった。 こてん。 三人はなんだかんだでついてきてくれた家族の気持ちにより、乗り物酔いになるぐらいに跳ね回ってから、ようやく地面に転がり落ちた。 「ねーね:、佐間太郎《さまたろう》ちゃん、ママさんとメリーゴ!ラウンド乗ろ?ね?ね?」 「佐間太郎、シャツが乱れてますよ……」 「おつかれさま」 「みんなに内緒で遊園地に遊びにくるからバチが当たったんです!」 すっかりヘトヘトになった三人に、彼女たちの言葉は心地よかった。言ってることは違っていても、意味は同じだ。それは佐間太郎だけではなく、キュウタにもわかった。 「みんな、ありがと……寝る」 佐間太郎はそれだけ言うと、グーグーと寝息を立てはじめた。 ---------------------[End of Page 146]--------------------- それを見て、神様家族は「あはは」と楽しそうに笑う。 その頃《ころ》ゴンドラでは。 「なによもおー!スグル本当に役に立たない1最悪っーー”」 「気絶してた。うん。この微妙な高さが怖くて」 「言い訳不要1わーん、みんな、早くおろしてよー1」 飛べない天使と、飛べるけど虚弱体質気味のブタが取り残されているのであった。 ---------------------[End of Page 147]--------------------- ピピローグピッ カコーン。エビス湯。 かためのタオルで、というリクエストに答えつつ、佐間太郎《さまたろう》はパパさんの背中を流している。この前の約束を果たすためだ。妙に律儀なところがある。 「オヤジ、今回はありがとな。天国から帰ってきたテンコ、ちょっと様子違ってたし」 「ああ、気にしないの。ほら、神の奇跡っての?あれ教えたから」 「そうなんだ?神の奇跡って天使にも使えるの?」 「ううん、全然使えないよ。適当に考えたやつだもん」 「あっはっは、そっかー、そか……そっか……マジかよH」 「え?うん。なんかマズかった?」 「いや、怖いから聞かなかったことにしとく。はい、終わり、じゃな」 銭湯から出ると、外ではテンコがヤクルトを飲んで待っていた。しまった、またしてもあの小型乳酸菌飲料を貰《もら》うのを忘れてしまった。 「あ、今日は早かったね」 ---------------------[End of Page 148]--------------------- 「ああ。まあな」 「でもパパさん、ここにくるならおうちにも顔出せばいいのにね」 「なんでも仕事とプライベートを一緒にしたくないらしいけどさ。これ、仕事なのか?」 「さあ?あ、ちゃんと伝えてくれた?」 「もちろん。後で部屋にスグルをよこすようにだろ?言っておいた」 「そっか、それならいいんだ。うんうん」 冬の世田谷《せたがや》。銭湯から出る煙。佐間太郎とテンコは、少しだけ距離を縮めて一緒に歩く。 空気が冷たくて、星の輝きがいつもより美しく見える。だが、佐間太郎はそんなことをテンコに言ったら笑われてしまうのではないかと黙っていた。 「ね、佐間太郎。星がきれいだよね」 「えPあ、うん1」 「空気が冷たいから、こんなキラキラしてるんだろうね。はあ、あんたさ、女の子と一緒に歩いてんだから、少しはそういう気の利《キ噛》いたセリフ言えないの?」 佐間太郎、ちょっと下唇を噛《か》む。 「でもさー、あの二人、結局一緒に住むんだろ?」 彼が言ったのは、もちろんキュウタとノゾミである。キュウタは結局テンコのことをあきらめたらしいが、ノゾミの正体は不明なままだ。悪魔が抜けた今、彼女はなんなのだろうか。ただの、どっかのガキ?いや、ただの、望み? ---------------------[End of Page 149]--------------------- 「施設にも入らないで二人で暮らすなんて立派だよなあ」 「たまに行って料理作ってあげようね。佐間太郎《さまたろう》は掃除担当ね」 「あーえーうー。はい」 「よし、それじゃ家まで競争ヨイドンッ!」 ★ 「なんかさ、本気出しちゃうよな、底抜けに」 「うん。もうやめよう、ああいうの。ね」 もちろんここは神山《かみやま》家、テンコの部屋である。 「男なのに女の子相手に本気出すなんてズルイしさ」 「あはは。すまんね。天使だから飛べるかと思ってさ」 「飛べるわけないでしょ1もう、許さない質」 テンコは不満げに頬《ほお》を膨《ふく》らませる。 「あ、そうだ。実はプレゼントがあるんだけど」 「なにっPもう、許しちゃうう〜」 デレデレしながら佐間太郎《さまたろう》に擦《す》り寄ると、彼《ロ》女は期待に満ちた目で待機している。 「はいこれ、射的の賞品の犬の時計。ポチ時計」 ---------------------[End of Page 150]--------------------- 「いらないっ」 「なんで!犬なのに1お前、犬とケンカしてたりしたろ19」 「あれは向こうが悪いのよ!もう!」 「ったく、せっかくのお返しだってのにさ」 「お返し?」 「そう、これの」 彼はパーカーを脱ぐと、シャツ一枚の姿になった。そこには、テンコが五分で編んだという伝説の「長めのマフラー」が巻いてあった。 「なに1人のマフラー勝手に1」 「だって俺《おれ》のために編んでくれたんだろ?せっかくだからさ」 「せっかくならパーカーの下に隠すなよう!」 フンダ1という姿勢を取りつつも、満面の笑みのテンコ。素直すぎる顔である。 五分で編んだなんて、嘘《うそ》に決まっているのだ。佐間太郎《さまたろう》のために、少しずつ、少しずつ編んだ長めのマフラー。 「じゃああたしも、このチンケな犬の時計貰《も噛り》ってあげるね。せっかくだからさ」 「うん、せっかくだから貰ってくれ」 佐間太郎は、自分でテンコの腕に時計を巻いてやった。いつ止まるともわからない安物の時計だけれど、なんだかとても温かみがある気がした。 ---------------------[End of Page 151]--------------------- 少し以前よりも積極的な彼に、テンコも勇気を出してみることにした。 「あのさ、佐間太郎。このマフラi、ちょっと長めだから、あたしも一緒にしていいかな?」 「う、うん。まあ、別に。よくないけど、ダメでもない」 「なにそれ……もう」 などと文句を言いつつも、一本のマフラーを二人で巻いた。一人でするよりずっと温かいのは、二人が寄り添っているからだろうか。 「これ、どんぐらいかかったの?作るのに」 「だから五分」 「嘘《うそ》つけよ。五分は無理だろ」 「本当だもん」 毎日五分。きっちり、ちゃんと。ちょっとずつ。 「あ。そうだ佐間太郎。こんな体操知ってる?」 突然イタズラっ子のような笑顔を浮かべながら、テンコは切り出した。さすがの佐間太郎も、ちょっと嫌な予感がする。 「な、なに?」 「まー、えーと、全部省略して、目を瞑《つむ》って?」 「う、うん」 「好きな人のことを考えて。深く、すごく深く考えて」 ---------------------[End of Page 152]--------------------- 「う、うん」 マフラーで繋《つな》がった二人。すぐ隣には大好きな人の顔。 彼は誰《だれ》を想像してるのだろうか。聞きたい。誰のこと考えた?って聞きたい。でも聞けないよ、こりゃ聞けないよなー、タハーッー−叫 「テンコ」 「どわあああああああああああああああ!」 「ぶげえええええええええええええええ!」 説明しよう。最初の声は、突然窓の外から顔を出したスグルの声であり、次にそれが佐間太郎《説明しよう。最初の声は、突然窓の外から顔を出したスグルの声であり、次にそれが俳《ペロ》またろう》が言ったと思い込んで飛びのいてしまったテンコの声、最後は首を引っ張られて泡を吹いた佐間太郎の悲鳴である。 「ちょっとスグル!あんたねえ、こんな大事な時にこないでよね!」 「呼び出しておいてそれはないだろ?こっちも忙しいんだぞ?」 「バー。体操は謎《なぞ》のままにしておくか……。それじゃ佐間太郎、伸びてないで行くよ?」 足で何回か蹴られ、ようやく彼は意識を取り戻す。 「へ?行くってどこに?こんな時間だぞ?」 「キュウタんちに決まってんでしょ?どうせ貧乏なんだし、寄付よ、寄付1善は急げって言うじゃない?」 寄付という言葉を聞いて、スグルがビクッと体を震わせる。 ---------------------[End of Page 153]--------------------- 「こ、このお金は勝手に使ってはいかん。それに、取り出せない仕組みになってるのだぞ1」 「大丈夫よ、逆さにしてガシャガシャ振ったり、ガムテ短く切って投入口にソローっと入れて出せば小銭ついてくるでしょう?」 「そういう問題では!」 「はい、それじゃ出発1」 すでに真っ白いダッフルコートを着たテンコが、出かける気満々で叫《{、,》んだ。 これからガシャガシャ振られたりするかもしれないスグルと、意識を取り戻したばかりの佐間太郎はグッタリとしている。 「なにもー、気合足りてないな、ほんとにー」 「あ、ところでテンコ」 思い出したかのように、スグルが言った。 「なに?」 「メッセージを預かってるぞ?」 「メッセージ?誰から?」 「さあ?聞いてみるか?」 ガバッと佐間太郎は起き上がり、ザクザクっとコートを着ると、突然の笑顔で言う。 「さ、行こうぜ。キュウタんち!ゴウゴウ!」 テンコとスグルは佐間太郎の方を一瞬見るが、完全に無視をした。 ---------------------[End of Page 154]--------------------- 「ささ、メッセージをば」 「はいはい」 「こらー1人の話聞いてんのかー!メッセージはいいから1だからお願いだから早く行こう!ね1行こう!ね1ね1」 『あ……えーと………その……あー……。 ああ、その、急にいなくなったりするなよ……。 俺はやっぱり、お前がいないとダメなんだ。お前が必要……』 ピッ ---------------------[End of Page 155]--------------------- あとがき こんにちは、桑島です。神様家族も五巻までやってまいりました。ありがたいことです、これも全《すべ》て読者のみなさまのおかげです。 今回のお話は、テンコが中心になっておりますね。みなさんは、神様家族のキャラクターの中では誰《だれ》がお好きですか?僕は久美子《くみこ》(即答)。最初はクールなキャラだったはずが、神山《かみやま》家の毒気《どくけ》に当てられ、今ではあんなんです。あんな久美子が大好きです。次の巻では、久美子が青汁飲みまくって口から緑色のドロドロした液体を吐きながら「えぐえぐ」 泣く話が書きたいです。あと、にんにく卵黄とかローヤルゼリーとかマイナスイオンとか、とにかく健康に良さそうなモノを口いっぱいに頬張らせて「えぐえぐ」泣く話が書きたい。 うん。意味はないけれど。えぐえぐ泣かせたいです。にっくき久美子め! さて、このあとがき書くの二回目です。なぜなら、最初にちょっと真面目《まじめ》に書いたら担当さんが「ナニコレ、オメ、チョーツマンネ、ッテカンジ。オメ、モット、オモロクシロヨナァァアウ質」と僕を脅《おど》したのです。僕だって、たまには真面目にあとがきを書きたい。 読者さんに気持ちを伝えたい。それを読んだ中学生とか高校生の女の子から「あら桑島先生って心がピュア。結婚してください1」「いやいや困ったさ、僕には将来を誓った大好 ---------------------[End of Page 156]--------------------- きな女性がいるさ。僕は彼女を愛しているさ」「なんでよもお、あたしの方が桑島先生のこと愛してるもんだ1ふんだふんだ!」「おいおい、胸とかで押さないでくれないかー。 あっはっは、困っちゃうなコリャオイラ。愛《いと》しのハニーが嫉妬《しつと》しなければいいがなあ。あっはっは」みたいなことになりたかったんです1それなのに1担当ってば「オメ、モット、オモロク、カキナサイ、ピピピ」とか二茜うのよ1もう。ロボット担当さんにしてから、メンテナンスが大変だわ1いつオーバーヒートするかわかんないんですもの1よお〜し、こっそりタンクの中にキャンディを混ぜちゃえ……。そうしたらあの怒りんぼうロボット担当さんも、ちょっとは優しい性格になるか・も:不(クスッ★)! はい、というわけで(素《す》)、今回も執筆にあたりMF文庫JのM様とK様に感謝を。K様には家にまで来てもらって、本当すんませんでした。そして素敵なイラストを描いてくださったヤスダ先生。いつも迷惑かけて申し訳ございません。そして「恋愛体操図解」を快く引き受けてくださった小五のメメちゃん。ありがとう。ちなみに、このメメちゃんはクイズが好きです。そして執筆中に心の支えになってくれたA様。サンキュサンキュエンサンキュ。みなさん、ありがとうございました。シュッシユッ。 桑島由一 ---------------------[End of Page 157]---------------------